治水工事の先駆者、行方久兵衛

三方五湖(みかたごこ)の水害を解決するため、浦見(うらみ)川開削(かいさく)工事に着手。難航する大工事を見事に完成させました。

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人工の川、浦見川
美浜(みはま)町と若狭(わかさ)町にまたがる三方五湖(みかたごこ)は、もともと久々子(くぐし)湖と菅(すが)湖がつながっていましたが、江戸時代の初めに起きた地震で、川が盛り上がり、水が流れなくなってしましました。

上流の湖の水位は上昇し、湖畔の集落は湖に沈んでしまいます。その時、湖の水を流す工事を指揮することになった小浜藩の役人・行方久兵衛(なめかたきゅうべえ)が選んだ方法は、最も距離が短い水月(すいげつ)湖と久々子湖の間を掘るというものでした。

それによって2つの湖を結ぶ人工の川・浦見(うらみ)川が完成したのです。
三方五湖©福井テレビ
浦見川©福井テレビ
大規模な工事
浦見(うらみ)川の開削(かいさく)工事は大変規模の大きいものでした。着工から約2年の歳月がかかり、人手は述べ22万5000人、米は3459俵、銀は100貫を要しました。

湖の排水に成功するとともに、三方湖の周辺に新たな土地が生まれ、およそ400石もの新田が拓(ひら)かれました。

現在、浦見川は全長324m、山頂から川底まで41mあり、遊覧船にのって景観を楽しむことができます。
浦見川を通る遊覧船©福井テレビ
皮肉の歌
浦見(うらみ)川開削(かいさく)工事は、固い岩盤に行く手を妨げられ難航しました。

掘り進むほどに硬さを増す岩盤に、人夫たちは工事への意欲を失います。やがて行方久兵衛(なめかたきゅうべえ)をののしるようになり、皮肉の意味を込めた歌を詠みました。

「掘りかけて通らぬ水の恨みこそ 底行方のしわざなりけり」という歌もその一つ。

それでも行方久兵衛はあきらめることなく、優れた石職人を呼び寄せたり、ルートを変えてみるなどの努力をして、遂に切り開かれたのです。
固い岩盤©福井テレビ
刻まれなかった偉業
浦見(うらみ)川の岩盤には、四角い「ます形」と呼ばれる線が残されています。

工事が完成した時、行方久兵衛(なめかたきゅうべえ)は工事に携わった人を称(たた)えて石碑を彫ろうとしました。しかし彼の母親が「素晴らしい仕事は、石に彫らなくても後の世に語り継がれます」と言ったことで石碑を彫るのをやめたためといわれています。

しかし、行方久兵衛の功績を称えて後の人々は気山(きやま)の宇波西(うわせ)神社のそばに石碑を建て「行方久兵衛翁頌徳碑」の文字を刻みました。
ます形©福井テレビ

歴史年表

1616年(元和2年)
現在の小浜市に生まれる。
1659年(万治2年)
郡奉行となる。
1662年(寛文2年)
大地震のため冠水した三方五湖の、排水路開削に着手。
1664年(寛文4年)
浦見川完成、湖辺に約400石の新田を拓く。
1665年(寛文5年)
荒井用水を完成し、大薮・金山に新田を開発。この功により勘定奉行となる。
1686年(貞享3年)
没す。

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浦見川

行方久兵衛の指揮のもと、固い岩盤を掘って造られた人工の川。遊覧船で通ることも可能

梅丈岳/三方五湖

ケーブルカーで山頂にのぼると三方五湖を一望できる

行方久兵衛翁頌徳碑

行方久兵衛の功績を称え建てられた記念碑