人形浄瑠璃作家、近松門左衛門

鯖江ゆかりの人形浄瑠璃(じょうるり)作家。『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』をはじめ、江戸時代を代表する優(すぐ)れた作品を数多く残しました。

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人形浄瑠璃作家への道
福井藩の家来(けらい)の子として生まれ、幼い頃に鯖江の吉江(よしえ)に移り住んだといわれる近松。

10年余りを鯖江で暮らした後、京都へ引っ越し浄瑠璃(じょうるり)の語り・宇治嘉太夫(うじかだゆう)のもとで浄瑠璃作家の修行を積みました。

その後、大阪で『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』を発表すると大人気となり、元禄文化を代表する人形浄瑠璃作家となりました。

『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』や『傾城反魂香(けいせいはんごんこう)』など多くの優れた作品を世に送り出し、松尾芭蕉(まつおばしょう)や井原西鶴(いはらさいかく)と並び元禄(げんろく)三大文豪に数えられています。
近松門左衛門が作った浄瑠璃本鯖江市資料館蔵
鯖江の風景
近松の父は、福井藩分家の吉江(よしえ)藩士で、近松が2歳の頃に一家揃って吉江(現在の鯖江市立待(たちまち)地区)に移り住んだといわれています。

春慶寺(しゅんけいじ)の境内(けいだい)や日野川の流れなど、吉江ののどかな風景が原風景(げんふうけい)となり、近松の人間形成(けいせい)に大きな影響を与えたと言われています。

現在の鯖江市立待(たちまち)地区には、当時の面影(おもかげ)が通りやお寺の門などに色濃く残されています。

近松の功績を偲(しの)び、吉江の里には三味線(しゃみせん)の形をした記念碑庭園が造られています。
江戸時代の面影を残す吉江七曲通り©福井テレビ
吉江藩の屋敷の門を移築した西光寺表門©福井テレビ
『曽根崎心中』
人形浄瑠璃『曽根崎心中』は、醤油(しょうゆ)屋の手代(てだい)・徳兵衛(とくべえ)と遊女(ゆうじょ)のお初の恋物語で、2人は心中の道を選びます。

この心中ものに共感した人々の間で心中ブームが起こり、江戸幕府は上演を禁止し心中した者の葬儀(そうぎ)を禁止するなどの措置(そち)をとりました。

また、『曽根崎心中』の初演(しょえん)は道頓堀にある竹本座での公演でしたが、当時の人々に大絶賛で迎えられ、竹本屋が借金を返済(へんさい)してしまったとのエピソードが『今昔操年代記(いまむかしあやつりねんだいき)』に伝えられています。
浄瑠璃に登場する福井
近松の浄瑠璃には、福井の土地がたびたび登場します。

近松の傑作のひとつ『傾城(けいせい)仏の原』には、月窓寺(げっそうじ)の「沓はき如来(くつはきにょらい)」のご開帳の話がとり入れられて、現在の坂井市三国町にある月窓寺や盛り場が舞台として登場します。

一方、敦賀市は『傾城反魂香(けいせいはんごんこう)』の舞台となり、主人公の狩野元信(かのうもとのぶ)が、松を描くために敦賀の浜辺へやってくる場面から始まります。
傾城仏の原に登場する月窓寺(坂井市三国町)©福井テレビ
気比の松原(敦賀市)©福井テレビ
近松と西鶴の競作
近松は、書き下ろし処女作(しょじょさく)といわれる『世継曾我(よつぎそが)』で成功をおさめた後、『好色一代男(こうしょくいちだいおとこ)』で作家としてすでに第一人者であった井原西鶴(いはらさいかく)と出会いました。

それまで西鶴は浄瑠璃の戯曲(ぎきょく)には手を出しませんでしたが、ある時、浄瑠璃本で競作(きょうさく)しようと約束しました。

西鶴の出し物は『暦』、近松は『賢女手習鑑(けんじょてならいかがみ)』でしたが、近松の圧倒的な勝利で西鶴に「二度と浄瑠璃本は書くまい」と言わしめたという逸話(いつわ)があります。

歴史年表

1653年(承応2年)
福井城下で生まれる。
1683年(天和3年)
『世継曾我』が宇治座で上演される。
1703年(元禄16年)
『曽根崎心中』を発表する。
1724年(享保8年)
幕府が心中物の上演の一切を禁止する。
1725年(享保9年)
72歳で没する。

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立待公民館/近松門左衛門記念碑庭園

近松門左衛門の辞世の句碑が建つ「近松門左衛門記念碑庭園」がある

春慶寺

近松門左衛門が幼少のころに住んでいたと言われている場所近くにあるお寺

吉江七曲り通り

通り沿いに伝統的な町屋があり、吉江藩時代の城下町の面影が残る

西光寺

西光寺の表門は吉江藩藩邸の表門を移築したもの

吉江藩館跡

吉江藩主の館があった場所。廃藩後、正門は西光寺に移築された

月窓寺

近松門左衛門作の「傾城仏の原」は、この月窓寺を舞台にして書き下ろされている

気比の松原

日本3大松原のひとつ。長さ約1.5キロメートルにわたり、松と砂浜のコントラストが印象的

鯖江市まなべの館

鯖江市の郷土資料館。近松門左衛門の資料を展示する近松の部屋がある