西洋医学の先駆者、杉田玄白
西洋医学翻訳(ほんやく)書『解体新書(かいたいしんしょ)』を著し、日本の医学の近代化や蘭学(らんがく)の進展に貢献しました。
偉人のあゆみを調べよう!
- 蘭学との関わり
- 杉田玄白(すぎたげんぱく)は、小浜藩の医者の子として江戸で生まれ、18歳から幕府医官の西玄哲(にしげんてつ)のもとで蘭方外科を学びました。
また、平賀源内(ひらがげんない)らと同時代の人でもあり、蘭学に興味を持ちました。
オランダ商館長の通訳であった西善三郎(にしぜんざぶろう)に会い、オランダ語の難しさを知り学問を一時あきらめたこともありました。
しかし、西洋の解剖学の本『ターヘル・アナトミア』との出会いが、玄白を再びオランダ語へと向かわせたのでした。
©東京医科歯科大学附属図書館 - 翻訳を思い立った理由
- 小浜藩医をしていた父の後を継いで侍医(じい)になった玄白(げんぱく)は、『ターヘル・アナトミア』という西洋の解剖学の本(オランダ語版)を手に入れました。
オランダ語はさっぱり分かりませんが、日本や中国の五臓六腑(ごぞうろっぷ)の図とは異なるその付図(ふず)を、本物の人体と比べたいという思いが募(つの)りました。
39歳の時に江戸で死体の解剖に立ち会う機会を得て、付図の正確さに驚きこの本を翻訳して世に役立てようと決心したのです。
<©東京医科歯科大学附属図書館 - 翻訳のエピソード
- 玄白(げんぱく)は、小浜藩医の中川淳庵(なかがわじゅんあん)や前野良沢(まえのりょうたく)らと共に『ターヘル・アナトミア』の翻訳を行いました。
満足な辞書もない時代で、「眉(まゆ)というものは眼の上方にあるものなり」という一文すら、丸一日かかっても分からない有様(ありさま)でした。
それでも1ヶ月に7回ほど集まって勉強し、動物の解剖を行ったり、通訳の者に聞いたりしながら、11回もの書き直しと足かけ3年の歳月をかけて完成しました。
「軟骨(なんこつ)」や「神経」といった言葉は、この時に彼らがつくったものです。
中川嘉夫氏蔵
©東京医科歯科大学附属図書館 - 『蘭学事始』の出版
- 『蘭学事始(らんがくことはじめ)』は玄白(げんぱく)が83歳の時、翻訳業の苦労の軌跡(きせき)を回想して記し、大槻玄沢(おおつきげんたく)に送った手記です。
玄白は蘭学の開拓者として、自分の死によって蘭学草創(そうそう)の事を知るものがいなくなることを惜しみ、当時の事を書き残したのです。
江戸時代は写本のみで伝わりましたが、幕末の頃にこの写本を読んだ福沢諭吉(ふくざわゆきち)が泣いて感動し、学問の継承・保存の為にこの本を世に出版。一般に読まれるようになりました。 - 玄白ゆかりの地
- 小浜市には、玄白(げんぱく)が小浜藩出身だったことにちなんで名前がつけられた「杉田玄白(すぎたげんぱく)記念 公立小浜病院」があります。
病院正面には玄白の銅像があり、生前の玄白を忠実に再現して建てられました。
ほかにも小浜市には、小浜で亡くなった玄白の兄と義母の墓がある空印寺(くういんじ)や、玄白の父が納めたと伝わる弁天像がある羽賀(はが)寺など、ゆかりの地があります。
©杉田玄白記念 公立小浜病院
歴史年表
- 1733年(享保18年)
- 小浜藩医・杉田甫仙の子として江戸で生れる。
- 1740年(元文5年)
- 一家で小浜へ移る。
- 1769年(明和6年)
- 父の死により、家督と侍医の職を継ぐ。
- 1771年(明和8年)
- 中川淳庵にすすめられ、オランダの解剖書『ターヘル・アナトミア』を藩費で購入してもらい、翻訳を志す。
- 1774年(安永3年)
- 『解体新書』を刊行する。
- 1817年(文化14年)
- 没す。
関連ポイントを探す
杉田玄白記念 公立小浜病院
郷土の偉人、杉田玄白の名を冠した公立病院。病院の正面に杉田玄白の銅像がある
小浜市中央公園
公立小浜病院の向かい側にある公園。園内に杉田玄白顕彰碑がある
羽賀寺
716年(霊亀2年)行基上人の創建といわれ、多くの仏像、書画等の文化財を所蔵。玄白の父が信心深く、羽賀寺に仏像や土地を寄進している
空印寺
小浜藩の殿様、酒井家の菩提寺。八百比丘尼伝説が残る。杉田玄白の兄と義母の墓がある
高浜町郷土資料館
杉田玄白とともに解体新書を記した小浜藩士・中川淳庵ゆかりの高浜町。町内の美術工芸品や民俗資料、歴史について展示