永平寺の開祖、道元禅師
永平寺を開き、曹洞宗をひろめた鎌倉時代の僧です。禅を追求しながら『正法眼蔵(しょうほうげんぞう)』を書きました。
偉人のあゆみを調べよう!
- 永平寺を建てるまで
- 京の都で生まれた道元禅師は、14歳で出家し24歳で中国へ修行に渡りました。
そこで師と仰ぐ如浄(にょじょう)禅師と出会い、正法の禅を悟り京の都に帰って禅の教え(実践)をひろめました。
その後、越前に入り、現在の永平寺町にある吉峰寺と大野市にある禅師峰寺に滞在。
吉峰寺は、道元禅師の教えの真髄である『正法眼蔵』(しょうほうげんぞう)の3分の1を書き上げたお寺として知られています。
吉祥山大仏寺(きっしょうざんだいぶつじ)後の永平寺を完成させ、ここを拠点に禅の教えをひろめていきました。
©福井テレビ
©福井テレビ
©福井テレビ - 疑問解決のため中国へ
- 幼い時に父母を亡くした道元禅師は、仏教への志が深く14歳で出家し比叡山延暦寺に上り仏門に入りました。
そこで「人はみな本来仏法をそなえており、そのままですでに仏であるはずなのに、なぜ厳しい修行をしなければならないのか」と疑問を持ったことが道元禅師の仏道究学の出発点です。
この疑問を解決するために中国へ渡り、如浄(にょじょう)禅師のもとで修行をし、座禅するという修行の中に悟りがあるという只管打坐(しかんたざ)の禅に出会いました。
©福井テレビ
©福井テレビ - 未完成の「正法眼蔵」
- 道元禅師が、1231年から入寂(にゅうじゃく)する1253年まで生涯をかけて記した『正法眼蔵(しょうほうげんぞう)』。日本曹洞禅思想の真髄が説かれた仏教思想書です。
鎌倉時代の仏教者の著書がすべて漢文で書かれている時代に、真理を正しく伝えたいという考えから日本語、仮名で著述しています。全部で100巻にまで拡充するつもりでしたが、87巻で病のために完成できませんでした。
その後、拾遺(しゅうい)として4巻発見され追加されています。 - 修行の寺・永平寺
- 道元禅師が開いた日本曹洞宗の大本山 永平寺。道元禅師は、坐禅修行を重んじ「坐禅は悟るための手段ではなく、坐禅それ自体が悟りである」という教えを貫きました。永平寺は修行道場として約760年経つ今日まで綿々と続いています。
永平寺では、雲水(修行僧)の修行生活に準じた参禅修行をすることができます。(要予約・確認)
永平寺蔵 - 木ノ芽峠で詠んだ歌
- 南越前町と敦賀市の境にある木ノ芽峠には、「草の葉にかどでせる身の木部山(きのめやま) 雲に路ある心地こそすれ」という歌の石碑が建っています。
晩年、道元禅師は病に伏せ、京の都で療養することになりました。越前から都へ向かう途中、木ノ芽峠で永平寺の方角の山々を遠くに見ながらこの歌を詠み、付き添ってきた弟子たちと峠で別れました。
その後、道元禅師は、京の都で病死。ついに永平寺に戻ることはかないませんでした。
©永平寺
©福井テレビ
歴史年表
- 1200年(正治2年)
- 内大臣源通親の子として生まれたと言われる。
- 1212年(建暦2年)
- 比叡山横川の般若谷千光坊に入り、翌年天台座主公円について剃髪、仏法房道元と名乗る。
- 1223年(貞応2年)
- 24歳で中国(宋の国)へ修行に渡る。
- 1243年(寛元1年)
- 越前国志比庄(今の福井県永平寺町)に移住する。
- 1244年(寛元2年)
- 吉祥山大仏寺(後の永平寺)を完成させ、ここを拠点に曹洞宗をひろめる。
- 1253年(建長5年)
- 54歳で没す。
関連ポイントを探す
大本山永平寺
道元禅師が開いた日本曹洞宗の大本山
吉峰寺
永平寺が建立されるまでの約1年間、道元禅師が滞在したお寺
禅師峰寺
永平寺が建立されるまでの約1年間、吉峰寺とともに道元禅師が滞在したお寺
宝慶寺
道元禅師とともに如浄禅師に学んだ中国人僧・寂円(じゃくえん)禅師によって開かれたお寺
木ノ芽峠(今庄365スキー場上)
旧北陸道の敦賀と今庄の境にある峠。永平寺を離れ都に帰る際、道元禅師が名残りの歌を詠んだ