北庄に散った柴田勝家とお市の方
現在の福井市に北庄城(きたのしょうじょう)を築いた勝家(かついえ)。羽柴秀吉(はしばひでよし)との対立から、最期は妻のお市(いち)の方と自害(じがい)しました。
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- 秀吉と天下を争った男
- 勝家(かついえ)は、一乗谷(いちじょうだに)の朝倉氏を攻め滅ぼし越前に広がっていた一向一揆(いっこういっき)を治めた後、織田信長から越前国内8郡の統治を任されました。越前に入ると北庄城(きたのしょうじょう)を建設、城下町を築きました。
北庄では楽座令(らくざれい)を発し、道路や橋などの整備も進めました。また、信長の安土城への近道として、栃の木峠を越える北国街道を整えました。
信長が亡くなった後、勝家は信長の妹のお市の方と結婚しました。
対立していた羽柴秀吉(はしばひでよし)と賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで敗れると、北庄城に逃げ帰りお市の方とともに自害しました。
©勝山城博物館
©勝山城博物館 - 瓶割り柴田
- 勝家が近江の長光寺城(ちょうこうじじょう)を少数の兵で守っていた時、六角承禎(ろっかくしょうてい)が数千の兵を率いて襲い、城の用水路を断ちました。
そこで勝家は瓶(かめ)に残っていた水を兵に飲ませ、残りの水をすべて大きな瓶に入れ「これで我らは、もはやあとがない。明日は決死の覚悟で打って出よう」と、大瓶を打ち割って必死の気合を兵たちに見せました。
奮い立った柴田勢は敵を打ち破りました。この時以来、勝家は「瓶割り柴田」と呼ばれたと言われています。
福井市立郷土歴史博物館蔵 - 道路や橋の整備
- 勝家は、城下の道路や橋などの整備も手がけました。
足羽川には、南半分が石、北半分が木という半石半木の九十九橋(つくもばし)を架け、南からの敵の侵入に備えました。
また、福井市舟橋(ふなばし)の地名は、幅広い九頭竜川に小舟をつないだ橋がかかっていたことに由来しますが、この「舟橋」をつないでいた鉄の鎖は、勝家が農民から集めた刀や槍の鉄で作ったものと伝えられています。
福井県立図書館蔵
福井市立郷土歴史博物館蔵
©柴田神社 - お市の方の逸話
- 信長の妹で、戦国一の美女と伝えられるお市の方。21歳の時、浅井長政(あざいながまさ)と結婚をしますが、長政が信長に敗れ自害。
その後、勝家と再婚し、勝家が羽柴秀吉(はしばひでよし)と対立して敗れると、勝家とともに自害しました。
お市の方について、こんな逸話(いつわ)が残っています。
「金ヶ崎の戦い」で、夫・長政の裏切りにより兄の信長が挟み撃ちになることを伝えるため、お市は手紙では怪しまれると思い、片方を麻糸(浅井氏)でもう一方を和紙(越前朝倉氏)で結んだ小豆の袋を送り、信長の身の危険を知らせました。
小豆を煮た汁粉は信長の大好物だったといわれています。
©柴田神社 - 「勝家の首なし行列」
- 秀吉に敗れ、北庄城(きたのしょうじょう)で悲運(ひうん)の最期をとげた勝家について、明治時代の初期まで「勝家の首なし行列」の伝説が伝わりました。
勝家の命日の4月24日になると、首のない勝家が白馬にまたがって九十九橋(つくもばし)をわたり、それを見た人は1年以内に死ぬとささやかれ、人々は固く扉を閉ざしました。
ただ万一出会っても「天下の名将、柴田勝家公」と叫べば助かったとも言われていました。
歴史年表
- 1547年(天文16年)
- このころ、お市の方が織田信秀の子として生まれる。
- 1567年(永禄10年)
- お市の方が、浅井長政と政略結婚する。
- 1570年(元亀1年)
- 勝家は、ろう城中の近江長光寺城中の飲水の瓶を割って出撃し、六角氏を撃退、「瓶割り柴田」の異名をとる。
- 1575年(天正3年)
- 勝家が信長より越前国内8郡の支配をゆだねられる。
- 1582年(天正10年)
- お市の方が勝家と再婚する。
- 1583年(天正11年)
- 勝家は近江柳ヶ瀬で秀吉と戦って敗れ、お市の方とともに北庄城で自害する。
- ※勝家の生年不詳
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北庄城跡/柴田神社
戦国武将・柴田勝家を祀る神社。勝家が建てた北庄城の天守閣があった場所といわれている
西光寺
柴田勝家とお市の方が眠る菩提寺。北庄城の鬼瓦が保存されている
九十九橋
柴田勝家によって架けられたといわれ、明治以前は北半分が木造、南半分が石造りの橋であった
舟橋
九頭竜川に四十八隻の舟を繋いで架けられた舟橋。勝家は、「刀狩り」で集めた鉄で作ったクサリで舟を繋いだといわれる
栃の木峠
古くから北国街道と呼ばれ、柴田勝家が、板取~近江木之本間の道路を幅3間(約5.5m)の道路に大改修した