松平春嶽の右腕、橋本左内

福井藩主・松平春嶽(まつだいらしゅんがく)に用いられ、明道館(めいどうかん)で活躍。「安政の大獄(あんせいのたいごく)」により20代半ばで処刑されました。

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悲劇の最期
福井藩に仕える医者の子として福井城下に生まれました。幼少から学問を好み、15歳の頃『啓発録(けいはつろく)』を書き、儒学者・吉田東篁(よしだとうこう)に教えを受けたり、大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)が開く適塾(てきじゅく)で蘭学(らんがく)も学びました。

その後、春嶽に用いられ、藩の学校である明道館(めいどうかん)で人材育成に努め、洋書習学所を新設。

将軍の跡継ぎ問題にも関わり、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を薦めたことにより、大老・井伊直弼(いいなおすけ)による「安政の大獄(あんせいのたいごく)」で20代半ばで斬首刑(ざんしゅけい)に処されました。
橋本左内生誕地(福井市)©福井テレビ
明道館
江戸時代後期に福井藩の殿様、松平春嶽(まつだいらしゅんがく)が設立した藩の学校。西洋の優れた学問を藩士たちに教えて人材育成をする場でした。

春嶽は、たくさんの知識を身につけていた左内を学監心得(がくかんこころえ)に任命しました。

明治2年に明道館(めいどうかん)は移転し「明新館(めいしんかん)」と改称。後の旧制福井中学校、現在の福井県立藤島(ふじしま)高等学校へとつながります。

由利公正(ゆりきみまさ)、関義臣(せきよしおみ)、日下部太郎(くさかべたろう)などを輩出し、理科を教えたウィリアム・グリフィス、熊本から請(こ)われた横井小楠(よこいしょうなん)などもいました。
左内ゆかりの地
福井市春山(はるやま)の生家跡には、左内(さない)が15歳の頃記した『啓発録(けいはつろく)』を記念して建てられた碑とともに、左内の産湯に使われたという井戸が残っています。

また、「安政の大獄(あんせいのたいごく)」で処刑された左内は、江戸に葬られた後、現在の左内公園内(福井市左内町)の橋本家墓所に改葬されました。

そのほか、左内や横井小楠(よこいしょうなん)、中根雪江(なかねせっこう)らが訪れた草庵「丹巌洞(たんがんどう)」が、今も福井市加茂河原(かもがわら)町に残っています。
左内公園(福井市)©福井テレビ
左内公園に立つ橋本左内像©福井テレビ
西郷隆盛との交流
多くの知識を身につけた左内は、福井藩や日本のために働き、薩摩藩(さつまはん)の西郷隆盛(さいごうたかもり)にも一目置かれていたといいます。

2人は、ともにそれぞれの殿様の命令で「将軍の跡継ぎ問題」で活躍した人物です。
「安政の大獄(あんせいのたいごく)」の際、奄美大島に身を隠していた西郷は、左内が処刑されたことを知ってとても悲しんだことを、友人の大久保利通らに宛てた手紙の中で明かしています。

また、左内の死からおよそ20年後、「西南の役」(明治10年)で自害した西郷隆盛の手文庫の中に、一通の手紙が発見されました。
それは、左内と西郷が「将軍跡継ぎ問題」で働いていたころに、左内が西郷に宛てた手紙でした。

西郷にとって左内は、それほど特別な存在だったのです。
西郷隆盛肖像画(キヨソネ筆)©鹿児島県歴史資料センター黎明館

歴史年表

1834年(天保5年)
藩医の子として福井城下に生まれる。
1849年(嘉永2年)
適塾で緒方洪庵らに師事し蘭方医学を学ぶ。
1857年(安政4年)
由利公正らと幕政改革に参加。
1859年(安政6年)
井伊直弼により斬首刑に処せられ(安政の大獄)、26歳で没す。

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橋本左内生誕地

橋本左内が生まれた場所。啓発録の碑と産湯の井戸が残る

福井城址

江戸時代に福井藩の殿様、結城秀康が造った城址。現在も本丸の石垣と堀が残る

左内公園/橋本左内墓所

橋本左内のお墓がある公園。啓発録の碑と銅像が建つ

恒道神社/福井神社

福井神社境内にある恒道神社は、幕末の福井藩士、中根雪江・鈴木主税・橋本左内がまつられている

福井県立藤島高等学校

松平春嶽公が設立した福井藩校明道館が起源。明道館の第2代校長には橋本左内が任ぜられた

丹巌洞

松平春嶽公の侍医を務めた山本瑞庵が造った草庵。この草庵を隠れ家として、橋本左内等、勤王の志士が集まったと伝えられている