三国とエッセル

三国(みくに)の豪商(ごうしょう)たちに依頼され三国港突堤(とってい)を設計(せっけい)したオランダ人、ジョージ・アルノルド・エッセル。現在のみくに龍翔(りゅうしょう)館はエッセルがデザインした龍翔小学校をモデルにしています。

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三国港突堤
北前船の寄港(きこう)地として栄えた三国。

しかし、その港は、九頭竜川からの砂が河口を塞(ふさ)ぎ、船の出入りができなくなるという問題に悩まされていました。

そこで、明治9年、地元の豪商たちは、優れた建築技術をもつオランダの技師(ぎし)・エッセルとデ・レーケを招き、設計を依頼(いらい)。

そして完成したのが、今も三国サンセットビーチ横でその役割を果たし続けている三国港突堤です。

突堤は、明治初期を代表する構造物(こうぞうぶつ)として、国の重要有形文化財(じゅうようゆうけいぶんかざい)に指定されています。
三国港突堤©福井テレビ
明治時代の三国港©みくに龍翔館
2つの機能をもつ突堤
九頭竜川河口にある三国港は、砂が溜(たま)りやすく、それを防ぐことが必要でした。

その対策として、三国港突堤は、川の流れの早さをゆるめずに一気に上流からの土砂を海に押し流す「導流堤(どうりゅうてい)」と、波を防ぐ「防波堤」の両方の機能をもつ突堤になりました。

現在の三国港突堤の一部が当時のもので、手前から灯台(とうだい)までがエッセルの設計によって造られたもの。その先は昭和になって延長(えんちょう)されました。
九頭竜川の土砂を海に流す三国港突堤©福井テレビ
エッセルの工法
三国港突堤を建設する上で、エッセルは土木技術に優(すぐ)れたオランダの「粗朶沈床(そだちんしょう)」という工法を取り入れました。

クヌギやナラなどの木の枝を籠(かご)のように組み、中に石を入れるこの工法により、突堤は波の影響を受けにくい安定した構造になりました。

また近くの雄島(おしま)や東尋坊から切り出した石を使い、景観(けいかん)にも配慮(はいりょ)しました。

こうして完成した三国港突堤は、設計者の名前から別名「エッセル堤」とも呼ばれています。
「粗朶沈床」の模型©福井テレビ
上から見た「粗朶沈床」<©福井テレビ
小学校も設計
エッセルが三国に残した功績(こうせき)には、三国港突堤のほかに小学校校舎の設計があります。

明治時代、三国の高台で異彩(いさい)を放っていた龍翔(りゅうしょう)小学校もエッセルが設計したものです。木造5階建で、最上階(さいじょうかい)にドームをもつ八角形(はっかくけい)の珍しい形の建物でした。

大正3年に老朽化(ろうきゅうか)のため取り壊されましたが、昭和56年に開館した三国の郷土資料館「みくに龍翔館」の建物にそのデザインが復元され、今も三国のシンボル的な景観を見せています。
汐見から見る龍翔小学校©みくに龍翔館
みくに龍翔館©みくに龍翔館
エッセルとエッシャー
見る者を不思議な感覚にさせる"だまし絵(トリックアート)"で有名な版画(はんが)家エッシャーは、三国港突堤や龍翔小学校を設計したエッセルの息子です。

名前の違いは英語読みとオランダ語読みの発音(はつおん)の違いによるものです。

三国では父エッセルとの縁(えん)から、"だまし絵"を広く公募(こうぼ)する「トリックアートコンペ」を開催。

歴史年表

1843年(天保14年)
オランダのハーグに生まれる。
1873年(明治6年)
日本政府のお雇い外国人として来日。
1876年(明治9年)
三国に派遣される。その後2度にわたり来福
1878年(明治11年)
三国港突堤の建設工事が始まる。同年、エッセルは離日。
1879年(明治12年)
エッセルの設計による龍翔小学校が完成。
1882年(明治15年)
三国港突堤が完成。
1939年(昭和14年)
オランダのハーグで、96歳の生涯を閉じる。
2001年(平成15年)
三国港突堤が国の重要有形文化財となる。

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三国港突堤

明治時代にオランダ人技師エッセルが「粗朶沈床(そだちんしょう)」という工法で設計。120年以上たった現代でも現役

みくに龍翔館

三国の高台に建つ郷土資料館。外観は、エッセルがデザインした龍翔小学校がモデル。エッセルの息子・エッシャーにちなみトリックアートを多数展示

東尋坊

荒波によって浸食された景観が約1キロにわたって続く景勝地。断崖の岩が突堤の建設に使われている