もうひとつの『ペチカ』の作曲者、今川節

代表作『ペチカ』をはじめ、節(せつ)は25歳で亡くなるまでひたすら音楽を愛し、作曲に情熱を注(そそ)ぎ続けました。

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音楽への情熱
明治41年、丸岡に生まれ、平章(へいしょう)小学校の高等科を卒業した節は、好きな音楽の道を目指し働きながら丸岡教会でオルガンを練習し、また通信講習(こうしゅう)で作曲を学びました。

大正15年には北原白秋(きたはらはくしゅう)の詩に、複合7拍子という珍しい技法(ぎほう)で作曲した『ペチカ』を発表。

昭和8年には、全国音楽コンクールで交響楽(こうきょうがく)『四季』が1等に入賞。しかし翌年、将来の活躍を期待されながら、節は25歳の短い生涯(しょうがい)を終えました。
今川節も卒業した平章小学校(明治42年)©坂井市立平章小学校
2つの『ペチカ』
「雪の降る夜は楽しいペチカ」で始まる北原白秋の詩には、2つの楽曲が作曲されています。

一般的に知られる『ペチカ』の作曲者は山田耕筰です。しかし、詩を作った白秋は、「私は今川君のペチカの方が好きだ」と語ったといいます。
「ペチカ」の楽譜(今川節直筆)©坂井市立丸岡図書館
約260曲
節が作曲した曲の数は、約260曲にものぼります。

その中には讃美歌(さんびか)や校歌などもあり、福井県内では坂井市丸岡町の長畝(のうね)小学校や本荘(ほんじょう)小学校の校歌が節の作品です。

代表作といわれる『ペチカ』は、丸岡に午後9時を告げる時報メロディとして流されています。
現在の丸岡©福井テレビ
今川君を救え
交響曲『四季』が全国第1位になった数日後、節は血を吐き、それ以降、床(とこ)につく日が増え、勤めていた銀行も退職しました。

かねてから患(わずら)っていた肺結核が悪化したのです。

節に指導を受けていた丸岡の合唱団メンバーや友人たちは、"今川君を救え"と救済基金(きゅうさいききん)を集めました。

しかし、節の病状は悪くなるばかりで、昭和9年ついに、次のシンフォニー作曲の夢を果たすことなくこの世を去りました。
今川節作曲の交響組曲「四季」の手書きの楽譜©坂井市立丸岡図書館
右側の胸ポケット
今川節(いまがわせつ)の写真の中には、普通左胸にあるはずの胸ポケットが右胸についたスーツを着ている写真があります。これは写真のプリントに失敗したのではありません。お金を節約し、裏返しに仕立て直したものを着ていたからなのです。

昭和3年に昭和天皇の即位を祝う『大礼奉祝唱歌(たいれいほうしゅくしょうか)』という歌の募集があり、節はこの時、日本中から寄せられた作品の中で2等に入選。当時としては大金の200円の賞金を手にしていました。

洋服などには目もくれず、節がこの賞金で買ったものはオルガンでした。
節の部屋に運び込まれたピカピカのオルガン。以来このオルガンは、彼の生涯(しょうがい)の友となります。

その後、交響曲『四季』が全国1位となり、東京の日比谷公会堂のステージに上がる機会がありました。その時、節が着ていたのはあの右側に胸ポケットがあるスーツだったのです。
今川節©坂井市立丸岡図書館
今川節の部屋で輝くオルガン©坂井市立丸岡図書館

歴史年表

1908年(明治41年)
現在の坂井市丸岡町に生まれる。
1923年(大正12年)
貧(まず)しさから中学進学をあきらめ、森田銀行丸岡支店の給仕となる。
1925(大正14年)
北原白秋(きたはらはくしゅう)の詩『てふてふ』(ちょうちょう)に曲をつけ、児童文学雑誌『赤い鳥』に応募し、推奨(すいしょう)作品に選ばれる。
1926(大正15年)
北原白秋の詩による『ペチカ』を作曲。
1928年(昭和3年)
文部省募集の『御大礼奉祝歌』に応募し、2等に入選。
1933年(昭和8年)
全国音楽コンクールで交響楽の『四季』が1等に入賞。
1934年(昭和9年)
肺結核で25歳の生涯を閉じる。

関連ポイントを探す

丸岡教会

今川節がオルガンの練習をした教会

坂井市立図書館 丸岡図書館

坂井市丸岡町ゆかりの作家・中野重治の文庫などがある図書館。今川節の資料を集めた節の部屋もある