福井藩最初の殿様、結城秀康

徳川家康(とくがわいえやす)の次男に生まれ、政略に利用された生涯でしたが、福井では城下町づくりや上水整備に力を尽くした殿様。

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結城秀康の生涯
結城秀康(ゆうきひでやす)は、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の養子に出された後、現在の茨城県、下総国(しもふさのくに)の結城氏に婿(むこ)入りして結城秀康と名乗ります。

関が原の戦いの後、福井藩の殿様となり、戦で荒廃した柴田勝家(しばたかついえ)の北庄(きたのしょう)城下の修復に着手。現在の県庁の場所に4層5階の天守閣をもつ城を築きました。

また城下町づくりや、城下の生活や農業に必要な水を九頭竜川から引く芝原用水(しばはらようすい)の掘削(くっさく)にも力を尽くしましたが、病を患(わずら)い34歳の若さでその生涯を閉じました。
結城秀康公©福井テレビ
福井城址©福井テレビ
政略に名付けられた名
秀康(ひでやす)は幼少時代、於義丸(おぎまる)という名でした。

家康(いえやす)と秀吉(ひでよし)が戦った小牧長久手の戦(こまきながくてのたたかい)の後、和解のための人質として秀吉のもとへ養子に出され、2人の名を1字ずつとり「秀康」と名乗ることになりました。

その後、秀吉に後継ぎが誕生したため、下総国(しもふさのくに)の大名である結城晴朝(ゆうきはるとも)の姪(めい)と婚姻(こんいん)し、結城秀康となりました。秀康の姓名には、そうした政略が色濃くからんでいたのです。

2代目の忠直(ただなお)以降は、徳川本家の姓である松平を名乗っています。
結城秀康公©福井テレビ
なぜ福井藩の殿様に?
1600年(慶長5年)に始まった関ヶ原の戦いで、秀康(ひでやす)は会津(あいづ)の上杉景勝(うえすぎかげかつ)が江戸に乱入するのを防ぎ、その武功の恩賞として、越前を家康から任されました。

また越前の隣りには、外様(とざま)大名の前田氏が治める加賀藩(今の石川県)があり、その牽制(けんせい)の意味もありました。

関ヶ原の戦いで武功をあげた武将たちのなかで、福井68万石を与えられたというのは、関ヶ原合戦後の恩賞としては最大のものでした。
関ヶ原古戦場(岐阜県関ヶ原町)©福井テレビ
福井城
天守台まで37メートルあまりにおよぶ四層五階の天守閣は、姫路城(ひめじじょう)に匹敵する豪壮なもので、城下の都市計画は徳川家康によるものと言われています。

当時、加賀100万石の前田氏に次ぐ2番目の大大名として、外様(とざま)大名の前田氏に睨(にら)みを効かせる堅固さと壮大さをもつ城でした。

1669年(寛文9年)の大火によって焼失後は、天守の復興が許されず、その代わりに本丸の角に建つ櫓(やぐら)が二重から三重になりました。現在は本丸の石垣のみが残っています。
福井城址天守台©福井テレビ

歴史年表

1574年(天正2年)
徳川家康の次男として生まれる。幼名は於義丸。
1584年(天正12年)
豊臣秀吉の養子となり、秀康と名乗る。
1590年(天正18年)
秀吉の命で下総国の結城氏へ養子に出され、結城秀康を名乗る。
1600年(慶長5年)
関ヶ原の戦いで家康の命を受け、下野国小山に布陣。
1601年(慶長6年)
越前に入り福井藩68万石の殿様になる。福井城の築城に着手。
1605年(慶長10年)
弟の秀忠が将軍になる。
1607年(慶長12年)
病にて没す。

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福井城址

江戸のはじめに結城秀康が築いた福井城の城址。本丸の石垣が残っていて、天守台には、「福井」の地名の由来となったと言われる井戸「福の井」がある

龍泉寺

結城秀康の家老・本多富正が眠るお寺。結城秀康の死後、殉死した二人の家臣とともに描かれている秀康の肖像画が残っている

舎人門/芝原用水

福井城の城門を復原した「舎人門」。福井城の堀には、九頭竜川から引かれた芝原用水の水が使われていた