清貧の歌人、橘曙覧

『独楽吟(どくらくぎん)』に代表される幕末(ばくまつ)の歌人。日常生活を題材に身近な言葉で詠む作風が高く評価されました。

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慎ましく生きた人生
曙覧(あけみ)は、現在の福井市で紙や墨(すみ)などを商(あきな)う家に生まれました。

33歳の時、本居宣長の弟子・田中大秀(おおひで)のもとで国学や歌を学び、37歳の頃には足羽山の黄金舎(こがねのや)や、現在の福井市照手にあった藁屋(わらや・曙覧の住居の自称)で慎(つつ)ましい生活を送りながら歌を作り続けました。

『独楽吟(どくらくぎん)』『堀名(ほりめ)銀山』などの個性豊かな歌が残されています。

曙覧が54歳の時、福井藩主松平春嶽(まつだいらしゅんがく)が藁屋を訪ね、出仕(しゅっし)を勧めたこともありましたが辞退しました。

生涯、慎ましい暮らしを続け、57歳で世を去りました。
藁屋跡(福井市照手2丁目)©福井テレビ
黄金舎跡へ続く愛宕坂©福井テレビ
清貧の歌人
中央の歌壇(かだん)と交じることなく、一地方の歌人として清貧(せいひん)の暮らしの中で生涯(しょうがい)を送った曙覧(あけみ)。

曙覧の没後、長男・今滋(いましげ)が『橘曙覧小伝(たちばなのあけみしょうでん)』や、父の残した歌を編集した『橘曙覧遺稿志濃夫廼舎歌集(しのぶのやかしゅう)』を編纂しましたが、これによって正岡子規(まさおかしき)に「源実朝(みなもとのさねとも)以来、歌人の名に値するものは橘曙覧ただ一人」と絶賛され、曙覧の名は文学史に残るものとなったのです。

「清貧の歌人」とは、子規が曙覧を評して言ったものと伝えられています。
『志濃夫廼舎歌集』©福井市橘曙覧記念文学館
歌の特徴
正岡子規(まさおかしき)を始めとする文学者に高く評価され、明治期の歌壇(かだん)に大きな影響を与えた曙覧(あけみ)の歌。

その第一の特徴は、日常生活に題材をとり、身近な言葉で詠むということでした。花鳥風月(かちょうふうげつ)を詠むことが主流だった近世末期に、曙覧は焼き魚や豆腐を食す楽しみ、紙漉(す)きや銀山採掘などの労働風景、そして竹が生えた住まいの様子や衣についた"しらみ"のことまで歌にしました。

このような歌は当時の歌壇では珍しく、異彩(いさい)を放っていました。
歌の題材を日常生活にもとめた曙覧©石井美千子2005 JAPAN
松平春嶽との交流
曙覧(あけみ)が活躍した時代の福井藩の殿様・松平春嶽(まつだいらしゅんがく)は、優れた人材登用をしたことで有名ですが、曙覧も春嶽に才を認められた一人です。

清貧(せいひん)の人生をおくる曙覧の学を伝え聞いた春嶽は、曙覧が47歳の時、万葉集(まんようしゅう)秀歌36首を選び春嶽に贈るよう命じました。

また、曙覧が54歳の時には藁屋(わらや)を訪れ、お城で和歌を教えるように勧めますが辞退しました。
松平春嶽福井市立郷土歴史博物館蔵
米大統領のスピーチ
日常生活に題材をとり、身近な言葉で詠むという特徴をもつ曙覧(あけみ)の歌は、今なお日本はもとより世界各国で親しまれています。

曙覧の歌を編纂(へんさん)したものの中で、特に有名なのが「たのしみは…」で始まる歌を集めた『独楽吟(どくらくぎん)』。

平成6年、天皇・皇后両陛下が訪米した際の歓迎スピーチで、ビル・クリントン大統領が曙覧の『独楽吟』の中の一首を引用したことで広く知られるようになりました。
「たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時」©石井美千子2005 JAPAN

歴史年表

1812年(文化9年)
福井城下の石場町(現在のつくも1丁目)に生まれる。
1839年(天保10年)
足羽山黄金舎に隠棲する。
1844年(弘化1年)
飛騨高山の田中大秀に国学を学ぶ。
1848年(嘉永1年)
黄金舎から三ツ橋に引越し藁屋と称する。
1858年(安政5年)
松平春嶽の命により、万葉集の秀歌36首を選び春嶽に贈る。
1865年(元治2年)
松平春嶽が藁屋を訪れ出仕を勧める。
1868年(慶応4年)
没す。

関連ポイントを探す

橘曙覧記念文学館/黄金舎跡

足羽山へと続く愛宕坂の中腹に建つ橘曙覧の資料館。橘曙覧が暮らした「黄金舎」跡に建つ

橘曙覧生誕地

橘曙覧は1812年(文化9年)石場町(現在のつくも1丁目)に紙や筆を扱う家に生まれた。生家跡に記念碑が建てられている

藁屋跡

橘曙覧が足羽山の黄金舎から移り住んだ住居の跡。1865年(慶応元年)松平春嶽が訪れ、藁屋を「志濃夫廼舎(しのぶのや)」と改めた

福井城址

江戸時代に福井藩の殿様、結城秀康が造った城址。現在も本丸の石垣と堀が残る

大安禅寺

福井藩の殿様・松平家の菩提寺。橘曙覧のお墓がある。初夏の花菖蒲は見事