新田塚に眠る悲運の勇将、新田義貞
鎌倉幕府を滅ぼした後、越前(えちぜん)を転戦し、現在の福井市灯明寺(とうみょうじ)付近で戦死。その場所は新田塚(にったづか)の地名の由来となりました。
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- 南北朝の戦いと義貞
- 新田義貞(にったよしさだ)は、鎌倉時代末期に上野の国(現在の群馬県太田市)に生まれました。
1333年、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の命を受け鎌倉幕府を滅ぼした後、その人生は一転して悲劇の結末へと突き進んでいきました。
天皇家が二つに分かれて戦った南北朝時代。南朝の武将、義貞は、敗戦の色が濃くなると天皇の皇子(おうじ)2人を伴い越前(えちぜん)に向かいました。
金ヶ崎(かねがさき)城、杣山(そまやま)城、さらに北へと転戦し、ついに現在の福井市灯明寺(とうみょうじ)辺りで壮絶な最期を遂げました。
©福井テレビ
©福井テレビ - 水田から発見された兜
- 江戸時代、義貞(よしさだ)が戦死した辺りの水田から、義貞のものといわれる兜(かぶと)が発見されました。
福井藩の殿様は、そのことから「新田義貞戦死此所」と刻んだ石碑(国史跡)を建て、その近くは、新田塚(にったづか)と呼ばれるようになりました。
また、明治時代には、義貞を祀る藤島神社が建てられました。
現在、足羽山にある藤島神社は、水害を避けて遷(うつ)されたもので、兜(国指定重要文化財)などゆかりのものが納められています。
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©藤島神社 - 金ヶ崎城の戦い
- 義貞(よしさだ)たちは、敦賀の金ヶ崎(かねがさき)城に立てこもり、半年近く抵抗しました。しかし足利軍の猛攻撃に、最後は自ら城に火を放ち、ついに落城。
尊良親王(たかながしんのう)と義貞の息子の義顕(よしあき)は自害、恒良親王(つねながしんのう)は捕らえられ幽閉(ゆうへい)された後、毒殺されたと伝えられています。
現在、金ヶ崎の山の中腹にある金崎宮(かねがさきぐう)には、悲しい運命をたどった2人の皇子(おうじ)が祀(まつ)られています。
太平記絵巻第6巻(埼玉県立歴史と民俗の博物館所蔵) - 夫に逢うため戦場へ
- 軍記物語の『太平記(たいへいき)』によると、義貞(よしさだ)の妻の勾当内侍(こうとうのないし)は、義貞に逢うため京を発ち、杣山城(そまやまじょう・現在の南越前町)に入ったとされています。
さらにそこから足羽(あすわ:現在の福井市)に向い、その途中で義貞の戦死の悲報を聞き、悲しみにくれて尼になったといわれています。
杣山(そまやま)には、追っ手から逃れるために勾当内侍が隠れていた「姫穴」や、城の女性たちが袿(うちぎ)を掛けて身を投げたという「袿掛岩」の伝説が残っています。
©福井テレビ - 義貞の首塚の不思議
- 戦死した義貞(よしさだ)の遺体は、北朝の武将によって現在の坂井市丸岡町にある称念(しょうねん)寺に埋葬されました。
義貞の首は北朝軍が京へ持ち帰りましたが、その後、首を葬ったと伝わる塚が不思議なことに、現在の群馬県、神奈川県、京都府ほか各地に残っています。
それは義貞の生きざまが後世の人々の心に、いかに感銘を与えたかを物語るものです。
©称念寺
歴史年表
- 1301年(正安3年)
- 上野の国(現在の群馬県太田市)に生まれる。
- 1331年(元弘1年)
- 元弘の変に出陣。
- 1333年(元弘3年/正慶2年)
- 後醍醐天皇の命により鎌倉幕府討伐のため挙兵。同年、鎌倉幕府を倒す。
- 1336年(建武3年)
- 天皇の皇子2人を伴い、越前に下る。
- 1337年(延元2年/建武4年)
- 敦賀、金ヶ崎城落城。
- 1338年(延元3年/建武5年)
- 灯明寺畷(現在の福井市灯明寺辺り)にて戦死。
- 1660年(万治1年)
- 福井の殿様が、兜の発見場所に碑を建てる。
- 1924年(大正13年)
- 義貞が戦死したとされる地が国史跡となる。
関連ポイントを探す
金ヶ崎宮
南北朝時代、戦国時代の古戦場が残る金ヶ崎城址に建つ神社。4月の花換えまつりで有名
金ヶ崎城址
延元元年(1336)新田義貞が足利軍と戦った古戦場。戦国の世には朝倉・浅井軍と信長・秀吉・家康の戦いの場にもなった
新田塚/史蹟「灯明寺畷」
江戸時代、新田義貞着用とされる兜が見つかった場所で、戦没地と言われている
藤島神社
新田義貞を祭神として祀る神社。元々は新田塚にあったが、水害を避けるため現在地へ遷された
杣山城址
標高492m。旧北陸道を眼下に望む城址。新田義貞の内室、勾当内侍が一時隠れていたと言われる姫穴が残っている
称念寺
灯明寺畷で戦死した新田義貞のお墓があるお寺