城下町大野を作った金森長近

織田信長の家来で一向一揆(いっこういっき)の制圧に関わる。褒美(ほうび)として大野郡の領地を与えられ、城と城下町を建設しました。

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10年間の大野統治
金森長近(かなもりながちか)は織田信長の家臣として一向一揆(いっこういっき)を治め、その褒美(ほうび)として大野郡の3分の2を領地として与えられました。

亀山(かめやま)の頂(いただき)に城(大野城)を築き、周辺には武家屋敷を集め、東側には碁盤(ごばん)の目状の城下町を、そのさらに東側には、お寺を集めた寺町(てらまち)をつくり、敵の城下町への侵入を防ぎました。

その後、豊臣秀吉の家臣となって飛騨(ひだ)一国を与えられ高山に移ったため、大野を治めていたのは、わずか10年余りでした。

しかし、その間に現在の大野市中心市街地の原型ができあがったのでした。
越前大野城©福井テレビ
北陸の小京都
長近(ながちか)が亀山(かめやま)に城を築き、武家屋敷、商家、寺町を配した城下町大野。

京都をモデルに東西南北に基盤(ごばん)の目状に走る6つの道筋を作り、整然とした街路(がいろ)が特徴です。

約430年を経た現在も当時とほぼ同じ町並みが残り、落ち着いた風情(ふぜい)漂う城下町大野は「北陸の小京都」と呼ばれ、観光客が訪れる人気のスポットになっています。

また、国土交通省による「都市景観100選」にも選ばれています。
大野城下町絵図大野市博物館(歴史博物館)所蔵
寺町通り©福井テレビ
城下町と七間朝市
大野市街地中心部の七間(しちけん)通りで、春分の日から大晦日(おおみそか)まで毎朝開かれている「七間朝市」。

農家の人を中心に旬の野菜や山菜などが売られ、大野の名物とも言える朝市は、金森長近(かなもりながちか)が造った城下町とともに始まり、400年以上の歴史があるといわれています。

最近は手作りの惣菜(そうざい)や加工品など趣向(しゅこう)を凝(こ)らしたものも多く並び、時代とともに進化しています。
七間朝市©福井テレビ
大野城の石垣
長近(ながちか)が4年の歳月をかけて築城した大野城。
周囲にめぐらされた外堀や内堀の石垣は、「野面積み(のづらづみ)」という工法で組まれました。

「野面積み」は、自然石をそのまま横に寝かせ、大きい石を奥に押し込んで積む方法です。隙間(すきま)や出っ張りができ、敵に登られやすいという欠点がありますが、排水性に優れ、頑丈(がんじょう)な石垣になっています。

最も古い年代に現れた積み方で、大野城は、石垣の積み方においても貴重な史跡といわれています。
大野城の石垣©福井テレビ

歴史年表

1524年(大永4年)
生まれる。
1575年(天正3年)
信長から越前大野郡に所領を与えられる。
1586年(天正14年)
秀吉から飛騨国をあてがわれる。
1590年(天正18年)
高山の天神山古城に城を築く。
1600年(慶長5年)
関ヶ原の戦いで軍功を立てたため美濃国、河内国などの領土を得て、初代高山藩主となる。
1608年(慶長13年)
没す。

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大野城

戦国時代、金森長近が亀山に築いた城。江戸時代は、土井家など大野藩の城となった

七間朝市

金森長近が整備したころから城下町大野の七間通りに立つ朝市。春分の日から11月中旬まで毎日開かれる

寺町通り

金森長近の城下町づくりで配置されたもの。約20の寺院が並び、古い町並みを今に残している

御清水

かつて城主の米を炊くのに用いられたことから、敬意を表して「御清水」あるいは「殿様清水」と呼ばれている

大野市歴史博物館

縄文から近代までの大野の歴史を知ることができる。特に幕末の藩政改革の資料が充実