『源氏物語』の作者、紫式部
世界最古の小説のひとつに数えられる『源氏物語』(げんじものがたり)の作者、紫式部(むらさきしきぶ)は、越前の国の長官となった父と共に、1年余りを越前で過ごしました。
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- 父と共に越前国府へ
- 紫式部(むらさきしきぶ)の両親は、父親が藤原為時(ふじわらのためとき)、母親は藤原為信(ふじわらのためのぶ)の娘です。
幼い時に母を亡くした紫式部は、学者であり、漢詩人であった父のもとで成長しました。
996年、父の為時が越前の国の長官(越前国司)となりました。そのため、紫式部は父と共に越前国府(こくふ)現在の越前市辺りへ移り住みました。
紫式部が都を離れて暮らしたのは、あとにも先にもこの時だけで、国府での生活や都との往来の旅は、式部の作品にさまざまな影響を及ぼしたといわれています。
都への懐かしさや越前で暮らす寂しい気持ちを込めた和歌が、『紫式部集』に収められています。
©福井テレビ - 紫式部ゆかりの梅の木
- 紫式部(むらさきしきぶ)が国府(こくふ)のどの辺りに住んでいたかはよく分かっていませんが、現在の本興寺(ほんこうじ)辺りだったのではないかと言われています。
その本興寺(ほんこうじ)には、式部ゆかりの梅の木が残されています。式部は国府で1年余りを過ごした後、京の都へ帰ります。その時、1本の白梅の木を残しました。
その後、式部が亡くなると、娘の賢子(けんし)が母を偲(しの)んで紅梅を植えたと言われています。
それから千年以上の時が経ち、現在、本興寺の境内にある紅梅は、その4代目と言われています。
(C)本興寺
©本興寺 - 『源氏物語』と「たけふ」
- 紫式部(むらさきしきぶ)が書いた『源氏物語(げんじものがたり)』には、「たけふ」の地名や越前の国府(こくふ)で見た多様な雪景色が登場します。
都に住む女性が地方で暮らす事などほとんどなかった時代に、式部が北陸の冬を体験したり、敦賀の松原客館(まつばらのきゃっかん)に滞在する宋人(中国人)を通じて先進的な大陸の文化に直接触れたことは、式部本人にも、また式部の作品にも大きな影響を与えたと考えられています。
財団法人大和文華館蔵
©福井テレビ - 紫式部公園の銅像
- 越前国府があった越前市(旧武生市中心部)には、式部の滞在を記念して造られた紫式部公園があり、紫式部像が建てられています。
その顔は、日野山(ひのさん)を眺めるような角度で造られています。これは、式部が越前国府で過ごした初めての冬、日野山に降り積もった雪を眺めながら詠んだ歌「ここにかく 日野の杉むら埋む雪 小塩の松にけふやまがえる」にちなんでいます。
都の近くにある小塩山(おしおやま)を日野山に重ね合わせて、都を恋しく思う気持ちが伝わります。
©福井テレビ
©福井テレビ - 源氏物語千年紀
- 795首の和歌を含む長編小説『源氏物語』は、平安朝中期を舞台に、天皇の皇子として生まれながら臣下(しんか)の籍に降りた光源氏が、数多(あまた)の恋愛遍歴を繰り広げるという内容で、文章の美しさと美意識の鋭さから、日本文学史上最高の傑作といわれています。
2008年は『源氏物語』が記録の上で確認されてからちょうど千年になり、福井県内でイベントを実施したり、全国的にも『源氏物語』の映像化、記念書籍の販売などが行われました。
歴史年表
- 996年(長徳2年)
- 父と共に越前へ移り住む。
- 998年(長徳4年)
- 帰京する。
- 1001年(長保3年)
- 『源氏物語』の文献初出と言われる。
- ※生没年不詳
関連ポイントを探す
紫式部公園
平安時代、越前市に住んでいた紫式部を偲び造られた全国でも珍しい寝殿造りの公園
本興寺
旧北陸道沿いにあるお寺。境内に紫式部ゆかりの梅の木が残る
木ノ芽峠
旧北陸道の敦賀と南越前の境にある峠。多くの武将や文化人がこの峠を越えた