幕末の名君 松平春嶽
「藩札(はんさつ)」発行や「明道館(めいどうかん)」の開設など、藩政の改革に取り組んだ福井藩の殿様。後に国政の中心でも活動しました。
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- 春嶽の活躍
- 11歳の頃、福井藩の殿様となり藩政の改革を推進しました。
「藩札」の発行や藩校「明道館(めいどうかん)」を開設したり、三国で洋式大砲製造を開始。
幕末の政情不安の中、幕府の改革にも乗り出しますが、将軍の後継ぎ問題で敗北、大老・井伊直弼(いいなおすけ)により安政の大獄(あんせいのたいごく)で家来の橋本左内(はしもとさない)らと共に処分されました。
しかし、反対勢力の直弼が暗殺されると、政治総裁職(せいじそうさいしょく)として再び幕府の政治に携わりました。
豪徳寺蔵
©福井テレビ
©福井テレビ - 藩再建の取り組み
- 多額の借金を抱えていた福井藩の財政建て直しのために、春嶽(しゅんがく)は、藩独自の紙幣「藩札(はんさつ)」を発行し、領内の貨幣の不足を補い通貨量の調整機能を担わせました。
また、人材育成のために藩の学校「明道館(めいどうかん)」を開設し、西洋の科学技術や経済学を学ばせることに力を注ぎました。
対外政策としては、鉄砲師や鋳物師(いものし)に洋式大砲の作り方を学ばせて、三国で製造を開始。越前海岸各地に洋式大砲を配備して、弓組や槍組などを鉄砲隊に再編成しました。
福井市立郷土歴史博物館蔵 - 巧みな人材登用
- 福井藩の財政建て直しのために、まず中根雪江(なかねせっこう)や鈴木主税(すずきちから)らを登用しました。
また、藩医の橋本左内(はしもとさない)を重用した他、熊本から横井小楠(よこいしょうなん)を招き、三岡八郎(みつおかはちろう)のちの由利公正(ゆりきみまさ)に殖産興業(しょくさんこうぎょう)を実践させるなど、優れたブレーンを登用して藩の再建に取り組みました。
さらに幕府の改革に乗り出した時にも、春嶽が登用した優れた人材は国家をも動かす力となっていきました。
福井市立郷土歴史博物館蔵
福井市立郷土歴史博物館蔵
福井市立郷土歴史博物館蔵 - 春嶽ゆかりの地
- 福井県内には、春嶽にゆかりのある場所が多数あります。
松平家の別邸「お泉水屋敷・養浩館(ようこうかん)」や、春嶽の霊が祀られている「福井神社」のほか、「佐佳枝廼社(さかえのやしろ)」では、福井城内の鎮守(ちんじゅ)として徳川家康や結城秀康を祀るほか、春嶽を最初に祭神としました。
また、三國神社内にある「木立神社」では、春嶽を祭神とし、春嶽自身も太刀(たち)などを寄進(きしん)しています。
©福井神社
©三國神社 - 日本の最高権力者に
- 開国論を主張し幕政改革に乗り出した春嶽(しゅんがく)は、将軍の後継ぎ問題で敗北。しかし、反対勢力の筆頭・井伊直弼(いいなおすけ)が暗殺されると政治総裁職(せいじそういさしょく)として幕政に復帰しました。
この職は江戸時代後期、幕末に新設された将軍後見職(こうけんしょく)、京都守護職(しゅごしょく)と並ぶ江戸幕府三要職の一つで、今の総理大臣(そうりだいじん)に相当します。
春嶽がこの職に就(つ)いたのは1年足らずという短い期間でしたが、近代日本の夜明けに最高権力者となったのでした。
歴史年表
- 1828年(文政11年)
- 徳川斉匡の子として江戸に生まれる。
- 1838年(天保9年)
- 11歳の頃、福井藩主となり藩政改革を推進する。
- 1858年(安政5年)
- 大老井伊直弼と意見が合わず、幕府から隠居、謹慎を命ぜられる。
- 1890年(明治23年)
- 64歳で没す。
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福井城址
江戸時代に福井藩の殿様、結城秀康が造った城址。現在も本丸の石垣と堀が残る
御泉水屋敷・養浩館庭園
江戸時代には「御泉水屋敷」と呼ばれ、福井藩松平家の別邸であった。「養浩館」の名前は、明治17年に松平春嶽公が名づけた
福井神社
福井藩の殿様だった松平春嶽公を祀る神社。現在の社殿は、福井大学工学部の設計
佐佳枝廼社
寛永5年(1628)に東照権現(徳川家康)を祀ったのに始まる。 明治6年(1873)、松平秀康公を祀るにあたり、松平春嶽公により佐佳枝廼社と命名された
三國神社/木立神社
三國神社社殿の左手にある木立神社は、松平春嶽がまだ生きていた時に、春嶽公を神様として建てられた
丹巌洞
松平春嶽公の侍医を務めた山本瑞庵が造った草庵。この草庵を隠れ家として、橋本左内等、勤王の志士が集まったと伝えられている