尊王攘夷の志士、梅田雲浜
激動の幕末、真剣に日本の未来を思い、尊王攘夷運動(そんのうじょういうんどう)に捧げたその生涯は、安政の大獄(あんせいのたいごく)での獄中死(ごくちゅうし)で幕を閉じました。
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- 優秀な儒学者
- 小浜藩(おばまはん)の武士の次男に生まれ、藩の学校である順造館(じゅんぞうかん)で学んだ雲浜(うんぴん)は、その後も学問を究(きわ)めていき、崎門学派(きもんがくは)の朱子学(しゅしがく)を学んで儒学者(じゅがくしゃ)となりました。
大津(現在の滋賀県大津市)に湖南塾(こなんじゅく)を開き、そのしばらく後には京都の塾に招かれ講師となりました。たいへん優秀な学者であったといいます。
しかし、時代は江戸時代が終わりを告げようとしていた幕末。日本の将来を真剣に考える雲浜の人生は、その後大きく変わっていきました。
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©福井テレビ - 激動の時代の中で
- その頃の日本は、黒船の来航や将軍の跡継ぎ問題で揺れに揺れていました。そんな政情不安が、雲浜(うんぴん)を尊王攘夷運動(そんのうじょうい)へと向かわせました。
ペリー来航の1年前、雲浜は外国に対する政策について意見し、それが小浜藩の殿様の逆鱗(げきりん)に触れて浪人となりました。
貧しい浪人生活に耐えながら、雲浜は尊王攘夷の指導者となって幕府の政治を強く批判。ついに幕府に捕えられ、獄中(ごくちゅう)で病死しました。
世に言う安政の大獄(あんせいのたいごく)で命を散らした一人でした。
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©福井テレビ - 雲浜を支えた妻
- 雲浜(うんぴん)の妻は、崎門(きもん)学者の娘で名を信子(しんこ)といい、18歳で結婚しました。
夫が浪人となり、尊王攘夷(そんのうじょうい)運動に奔走(ほんそう)する日々。信子は苦しい家計をやりくりしながら、信念に生きる夫を支え続けました。
そんな苦労のためか、信子は29歳で死去。
亡くなる前の年、病床の信子に雲浜が決死の覚悟を伝えると、信子はそんな夫を気丈にも励ましたというエピソードが、深い夫婦愛の象徴的な話として伝えられています。 - 尊王攘夷運動
- 尊王攘夷(そんのうじょうい)とは、天皇を日本の国の拠(よ)りどころとして外圧や外敵(外国)を追い払おうという思想のことです。
江戸末期、鎖国していた日本に外国が開国を求めてやってくるようになると、盛んに尊王攘夷が唱えられるようになりました。
幕府に対する反体制運動が各地で起り、その後の明治維新への原動力ともなりました。 - 安政の大獄
- 1858年(安政5年)、江戸幕府の大老であった井伊直弼(いいなおすけ)は、幕府の政治を批判する者たちを弾圧。100名あまりが捕えられ罰せられました。
この事件を、安政の大獄(あんせいのたいごく)といいます。
福井県に関わりのある人物では、橋本左内(はしもとさない)が死刑、福井藩の殿様の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)が隠居(いんきょ)・謹慎(きんしん)、そして梅田雲浜(うめだうんぴん)が獄死しています。
歴史年表
- 1815年(文化12年)
- 小浜藩に仕える武士の次男として生まれる。
- 1830年(天保1年)
- 小浜藩の儒学者である山口菅山に崎門学を学ぶ。
- 1843年(天保14年)
- 京都へ上京し、望楠軒の講師となる。
- 1852年(嘉永5年)
- 雲浜の意見書が小浜藩の殿様の逆鱗に触れ、浪人となる。
- 1853年(嘉永6年)
- アメリカのペリー率いる黒船が来航。
- 1858年(安政5年)
- 安政の大獄で捕えられ、獄死。
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小浜城址
酒井忠勝が完成させた小浜城があった場所。天守閣が建っていた石垣などが残る
順造館の門/若狭高校
小浜藩の藩校、順造館の門が移築されている。梅田雲浜は順造館で幼少のころ学んでいた
松源寺/梅田雲浜の墓
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小浜湾を臨む公園。高台に佐久間勉の銅像や山川登美子の歌碑が建つ
梅田雲浜生誕地
梅田雲浜が生まれた場所。記念碑が建てられている