小浜藩の殿様、酒井忠勝
小浜城(おばまじょう)を築いて若狭国(わかさのくに)を治めた酒井忠勝(さかいただかつ)は、将軍からの信頼も厚く江戸幕府の重鎮(じゅうちん)としても手腕(しゅわん)を発揮(はっき)。
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- 徳川家と忠勝
- 酒井忠勝(さかいただかつ)は、徳川家康(とくがわいえやす)に仕える武将の子として生まれ、生涯(しょうがい)を徳川家の忠臣(ちゅうしん)として4代にわたる将軍に仕えました。
将軍家光(いえみつ)の時代、若狭を治めていた京極氏(きょうごくし)の領地を引き継ぐかたちで、若狭国(わかさのくに)と越前国(えちぜんのくに)の敦賀(つるが)、そして近江国(おうみのくに)の一部を与えられ、小浜藩の殿様となりました。
一方、小浜藩だけでなく幕府の老中(ろうじゅう)そして大老(たいろう)として行政手腕を発揮。家光から「我が右手」と言われるほど信頼されていました。
©福井テレビ - 小浜城
- 忠勝(ただかつ)は、京極氏(きょうごくし)が着手していた小浜城建設を引き継いで完成させました。
その城は前に小浜湾を臨み、北川と南川にはさまれた中州(なかす)に造られた、水城(みずじろ)といわれる天然の要塞(ようさい)でした。現在は石垣が残り、旧本丸跡には忠勝を祀(まつ)る小浜神社が建てられています。
また石垣の脇にある地蔵尊(じぞうそん)は築城の際、人柱(ひとばしら)になった娘の供養(くよう)のためのもので、江戸時代の地震で石垣が崩れ長く所在がわからなくなっていましたが、昭和の石垣の修復の際に発見され再び祀られました。
©福井テレビ
酒井家文庫(小浜市立図書館蔵、データ提供:福井県立図書館) - 若狭塗の名付け親
- 若狭小浜の伝統工芸の若狭塗(わかさぬり)は、江戸時代の初めに小浜藩の御用塗師(ごようぬりし)、松浦三十郎(まつうらさんじゅうろう)が、中国漆器の技術をヒントに貝殻をちりばめて海の底をデザインしたことが始まりといわれています。
小浜藩の殿様となった忠勝は、その美しさに感心し「若狭塗」と名付け、藩をあげて手厚く保護し、下級藩士たちの内職として奨励(しょうれい)。現代に受け継がれる工芸技術の発展に大きく貢献(こうけん)しました。 - 雲浜獅子
- 毎年5月2日、3日、小浜城址にある小浜神社の祭礼(さいれい)で、雲浜獅子(うんぴんじし)という珍しい獅子舞(ししまい)が披露されます。
雲浜獅子は、小浜藩の殿様の酒井忠勝(さかいただかつ)が、小浜に入る前に殿様をしていた武蔵国(むさしのくに)の川越(現在の埼玉県川越市)から、舞の一行を連れてきて舞わせたのが始まりとされています。
忠勝は舞い手の一行を武士に準じる地位で召し抱え城の近くに住まわせ、舞の名には城下の地名をとり雲浜獅子と名付けました。現在は福井県の無形民俗文化財に指定されています。
歴史年表
- 1587年(天正15年)
- 徳川家康の家臣の子として、三河国西尾に生まれる。
- 1591年(天正19年)
- 下総国に3000石を与えられる。
- 1600年(慶長5年)
- 関ヶ原の戦いでの上田城の戦いに、初陣として徳川秀忠に従軍。
- 1620年(元和6年)
- 第2代将軍秀忠から、世継ぎとなる徳川家光付きを命じられる。
- 1627年(寛永4年)
- 父の忠利が死去し、遺領を継ぎ川越藩2代目の殿様となる。
- 1634年(寛永11年)
- 若狭国小浜へ移り、小浜藩の殿様となる。
- 1638年(寛永15年)
- 大老となる。
- 1656年(明暦2年)
- 家督を4男の酒井忠直に譲り隠居する。
- 1662年(寛文2年)
- 76歳で没す。
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小浜城址/小浜神社
酒井忠勝が完成させた小浜城があった場所。天守閣が建っていた石垣などが残る
空印寺
酒井忠勝をはじめ歴代の小浜藩の殿様たちのお墓があるお寺
御食国若狭おばま食文化館
朝廷に食料を献上していた若狭国にちなみ食文化をテーマにした施設。2階の食工芸ゾーンでは、若狭塗箸の研ぎ出しや、若狭めのう細工の体験などもできる
お箸のふるさと館WAKASA
若狭塗箸のショールーム。3000種類もの箸が展示即売されている。昔ながらの手法でつくられた逸品から、現代の食卓に応じたデザインのものまでが揃う