浄土真宗をひろめた蓮如上人
貧しい人も平等に救われるという教えを説き、浄土真宗(じょうどしんしゅう)北陸布教(ふきょう)の本拠(ほんきょ)を築いた蓮如上人(れんにょしょうにん)は、民衆のカリスマ的ヒーロー。
偉人のあゆみを調べよう!
- 57歳の決断
- 蓮如上人(れんにょしょうにん)が吉崎(よしざき)の地へやってきたのは、57歳の時です。
当時の吉崎は、三方を湖に囲まれた天然の要塞(ようさい)のようなところでした。
蓮如上人は、この場所を比叡山(ひえいざん)の侵略(しんりゃく)を防ぐのに絶好の場所と考え、「御山(おやま)」と呼ばれる台地を平らにして布教(ふきょう)の拠点・吉崎道場(よしざきどうじょう)を開きました。
©福井テレビ - 吉崎の発展
- 蓮如上人(れんにょしょうにん)が吉崎(よしざき)の地に着いてからわずか3ヶ月ほどで、道場は多くの参拝者を集めるようになります。
その人気は蓮如ブームと呼べるほどのものでした。
そして道場の周りには、参詣者のための船着場や多屋(たや)と呼ばれる宿坊(しゅくぼう)などが立ち並び、一大都市が出来上がりました。
©福井テレビ - 吉崎七不思議
- 吉崎(よしざき)には、吉崎七不思議と呼ばれる七つの不思議な話が伝えられています。
吉崎道場が火事になったとき、蓮如上人(れんにょしょうにん)を慕(したう)うカニが無数に集まり泡を吹き、火事を消し止めたという話や不漁に困っている漁師たちを助けようと蓮如上人が紙をちぎって湖に投げ入れたところ、白い魚「こうなご」となり繁殖(はんしょく)し豊漁となったなどの話です。
蓮如上人の徳を偲(しの)ばせる不思議な伝説が今も残っています。
©福井テレビ - 嫁威し肉付きの面
- 「十楽(じゅうらく)」という村の「きよ」という嫁は、信仰心(しんこうしん)が厚く、毎日吉崎(よしざき)にお参りをしていました。
しかし信仰心のない姑(しゅうとめ)は、嫁の吉崎参りをやめさせようと鬼の面を付け、吉崎参りの夜道を急ぐ嫁を威(おど)しました。
すると面が顔から取れなくなってしまい、蓮如上人(れんにょしょうにん)から念仏(ねんぶつ)のいわれを聞き、姑が念仏を唱えると不思議にも面が取れたという話が伝わっています。
願慶寺蔵
願慶寺蔵 - 一向一揆
- 蓮如上人(れんにょしょうにん)の布教(ふきょう)によって、浄土真宗(じょうどしんしゅう)は爆発的に信者が増え、大きな勢力にまで成長しました。
当時は不安定な情勢にあり、信徒(しんと:信者)などは蓮如上人の意図に反して次第に過激化していきます。越前では吉崎(よしざき)を中心として一揆(いっき)が起こり、1574年には加賀国に続いて「一揆持ちの国」となります。
しかし、ほどなくして5万を越す織田信長(おだのぶなが)の軍に鎮圧(ちんあつ)され、自治を目指した信徒たちの夢は、多くの流血とともに幕を閉じました。
歴史年表
- 1415年(応永22年)
- 京都東山の本願寺にて、本願寺第七世・存如の長子として生まれる。
- 1420年(応永27年)
- 蓮如上人6歳のとき、存如が本妻を迎え、生母は本願寺を退出。
- 1431年(永享3年)
- 天台宗門跡寺院の青蓮院にて得度。
- 1457年(長禄1年)
- 本願寺第八世となる。
- 1471年(文明3年)
- 越前に吉崎道場(坊舎)を建立。
- 1475年(文明7年)
- 吉崎を退去。
- 1481年(文明13年)
- 京都の山科に御影堂・阿弥陀堂を建て、本願寺再興を果たす。
- 1499年(明応8年)
- 85歳で没す。
関連ポイントを探す
吉崎道場(御坊)跡
蓮如が築いた浄土真宗北陸布教の拠点。高村光雲による蓮如上人の銅像が建っている
嫁威
信仰心の厚い嫁を姑が鬼の面を付けて威かした「嫁威伝説」が残る場所。集落の場所にもなっている