朝倉孝景と朝倉義景

室町時代、越前の守護大名・斯波(しば)氏を裏切った朝倉孝景(たかかげ)は、一乗谷(いちじょうだに)を本拠地とし越前を支配した。一乗谷は義景(よしかげ)の時に最盛期を迎えました。

室町時代、越前の守護大名・斯波(しば)氏を裏切った朝倉孝景(たかかげ)は、一乗谷(いちじょうだに)を本拠地とし越前を支配した。一乗谷は義景(よしかげ)の時に最盛期を迎えました。

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越前を支配した孝景
「応仁(おうにん)の乱」で孝景(たかかげ)は、越前の守護大名の斯波(しば)氏に従い、西軍の将として活躍しました。

しかし、東軍の細川勝元(ほそかわかつもと)は"西国一の暴れん坊"と称された朝倉孝景を、越前守護職(しゅごしょく)と引き代えに寝返らせ、孝景は主人だった斯波氏を撃退しました。

孝景は当時勢力を広げていた守護代の甲斐(かい)氏を圧倒し、朝倉氏の越前支配が確立。

一乗谷(いちじょうだに)を新たな本拠地とし、朝倉氏は以後100年あまり、ここを拠点に越前国を治めました。
応仁の乱(真正極楽寺『真如堂縁起』より)©真正極楽寺
朝倉氏が城下町を建設した一乗谷©福井テレビ
信長と対立した朝倉氏
足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて天下を取ろうとする織田信長。その配下に入ることを拒む朝倉義景は信長の再三の通達にも応じず、都へは上ろうとしませんでした。

このあと朝倉氏と織田氏との対立は決定的となりました。

そして、元亀元年(1570年)朝倉は織田信長・徳川家康両軍に攻められることになります。信長の妹、お市を妻に持つ浅井長政(あざいながまさ)が信長の思惑に反して朝倉氏に味方したため、朝倉は敦賀金ヶ崎で織田・徳川軍を退けます。しかし、その後の姉川(あねがわ)の戦いでは朝倉氏が大敗しました。

そして天正元年(1573)、義景は浅井長政救援のため近江(おうみ)に出陣しますが、信長の攻勢に押され敦賀の刀根坂(とねざか)から一乗谷(いちじょうだに)へと敗走。一乗谷は信長軍に火を放たれ、壊滅してしまいます。

このとき義景は大野へ逃げますが、味方の裏切りにあい自害。
およそ100年におよぶ戦国大名・朝倉氏の越前支配は幕を閉じました。
姉川合戦図屏風©福井県立歴史博物館
一乗谷朝倉氏遺跡
5代103年間にわたって越前の国を支配した戦国大名・朝倉氏の城下町、一乗谷(いちじょうだに)。
その最盛期には、人口が1万人を超えたであろうといわれています。

発掘調査により町並の跡が次々に見つかり、その一部は現在、復原町並として整備されています。

遺跡は国の「特別史跡」に、遺跡内の4つの庭園は国の「特別名勝(めいしょう)」に、出土品は国の「重要文化財」に指定され、全国でも例の少ない3重の指定がされている遺跡となっています。
朝倉館跡©福井テレビ
発掘された朝倉館跡 黒い部分が建物©福井テレビ
文武に秀でた血筋
朝倉孝景(あさくらたかかげ)は幼少から利発(りはつ)で、勉学や武芸に秀でていたといわれます。

さまざまな掟(おきて)を定め、文化振興にも力を入れました。
連歌師(れんがし)の飯尾宗祇(いいおそうぎ)と弟子の宗長(そうちょう)や、儒学者(じゅがくしゃ)・清原宣賢(きよはらのぶかた)など、その時代を代表する文化人たちも一乗谷(いちじょうだに)に身を寄せました。

義景(よしかげ)もまた、文芸・芸術を愛したと言われています。
「曲水(きょくすい)の宴」や「犬追物(いぬおうもの)」など都風の興行は特に有名で、将軍家の叔父・大覚寺義俊(だいかくじぎしゅん)といった京都からの文化人も参加したと伝わります。
発掘された将棋の駒福井県立一乗谷 朝倉氏遺跡資料館提供
発掘された茶器福井県立一乗谷 朝倉氏遺跡資料館提供
発掘された花瓶福井県立一乗谷 朝倉氏遺跡資料館提供
"天下一の極悪人"
孝景(たかかげ)は、公領(こうりょう)や公家(くげ)領・寺社(じしゃ)領の押領(おうりょう)を多く行ったため、当時の権力層である寺社や公家にとっては、まさに仇敵(きゅうてき)で、嫌われた存在でした。

公卿(くぎょう)の一人、甘露寺親長(かんろじちかなが)は、日記の中で孝景のことを、"天下悪事始行の張本"と記し、また、彼の死を聞いた際には、「越前の朝倉孝景が死んだということだ。朝倉孝景は"天下一の極悪人"である。あのような男が死んだことは"近年まれに見る慶事(けいじ)"である」とまで記しています。
朝倉孝景肖像画心月寺(福井市)蔵

歴史年表

1428年(正長1年)
孝景が福井に生まれる。
1467年(応仁1年)
応仁の乱で孝景が斯波氏を撃退する。
1471年(文明3年)
孝景が越前国の守護になる。
1481年(文明13年)
孝景が54歳で没す。
1533年(天文2年)
義景が福井に生まれる。
1570年(永禄13年)
金ヶ崎の戦いが勃発。
1573年(天正1年)
一乗谷が灰と化し、義景は大野で自害する。

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