福井藩の財政再建を手がけた由利公正
松平春嶽(まつだいらしゅんがく)の命令を受け、殖産興業(しょくさんこうぎょう)で福井藩の財政を再建を手がける。「五箇条のご誓文(ごかじょうのごせいもん)」の原案を作ったことでも有名。
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- 軍事と経済の改革
- 由利(ゆり)は、軍事面と経済面において福井藩の改革に力を発揮しました。
軍事面では、ペリーの黒船が浦賀沖(うらがおき)にやってきたことから越前海岸の各地に洋式大砲を設置したり、最新式の鉄砲の量産を試みたりしました。
また、経済面の改革では、福井で作った生糸(きいと)などの特産品を売るための拠点を長崎や横浜に設けて販売ルートを開拓。その一方で、藩内の生産者に対しては特産品の生産資金として藩独自のお金「藩札(はんさつ)」を発行し、低金利で貸付けて生産を奨励しました。
©福井テレビ
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福井市立郷土歴史博物館蔵 - 龍馬も評価した手腕
- 福井藩の改革で見せた由利公正(ゆりきみまさ)の才覚に目をつけたのが、幕末の志士・坂本龍馬(さかもとりょうま)でした。
由利の財政手腕を高く評価していた龍馬は、由利と新政府の未来像や経済政策について福井の旅館で語り合ったといわれています。
また、由利が藩内の対立のため5年の間自宅に幽閉(ゆうへい)されていた時には、龍馬が由利を訪ね、財政担当の参与(さんよ)として新政府に参加しないかと要請に行きました。
©高知県立坂本龍馬記念館 - 五箇条のご誓文の原案
- 当時15歳だった明治天皇が、公家(くげ)や各地の大名などに示した明治新政府の基本方針を神様に誓って読み上げたのが「五箇条のご誓文(ごかじょうのごせいもん)」。
その原案となったのが、当時、政府の参与(さんよ)だった由利が考えた「議事之体大意(ぎじのていたいい)」でした。
その考え方のベースには、横井小楠(よこいしょうなん)の考えや坂本龍馬(さかもとりょうま)が独自の国家構想をまとめた「船中八策(せんちゅうはっさく)」があるといわれています。
福井県立図書館蔵 - 近代日本の基礎づくり
- 明治時代に入り、由利が今で言う財務大臣に初めて就任すると、全国で使うことができる日本で初めてのお札「太政官金札(だじょうかんきんさつ)」を発行。政府の財政再建を図りました。
明治4年に初代東京府知事に就任した後、「民選議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)」に署名し、国会開設を主導。
また、初代東京府知事として大火災にあった東京の都市計画も手掛け、銀座の街並みを整備するなどしました。
日本随一の繁華街・銀座大通りの一角には、今も由利の業績を讃(たた)える記念碑が残っています。
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歴史年表
- 1829年(文政12年)
- 福井藩士・三岡義知の子として福井に生まれる。
- 1871年(明治4年)
- 東京府知事となる。
- 1872年(明治5年)
- 岩倉具視とヨーロッパへ渡航し、各国の自治制度や議会制度などを研究する。
- 1874年(明治7年)
- 板垣退助や江藤新平らと共に、政府に対して民選議院設立建白書の建白書を提出する
- 1909年(明治42年)
- 81歳で没す。
関連ポイントを探す
福井城址
江戸時代に福井藩の殿様、結城秀康が造った城址。現在も本丸の石垣と堀が残る
福井市中央公園
福井市中央公園には由利公正の銅像がある
内堀公園
旅立つ横井小楠を由利公正が見送る「旅立ちの像」が建つ
たばこや旅館跡
慶応3年(1877年)11月、龍馬が福井を訪れた時に宿泊した旅館。その際、由利公正と長時間にわたり会談した
和紙の里通り
越前和紙の産地にある通り。明治初期、越前和紙は由利公正の提唱した太政官札に使われた
火薬局跡
福井藩の火薬製造所跡。安政4年(1857年)と翌5年(1857年)の2回爆発して犠牲者を出し、閉鎖された。由利公正は、火薬や鉄砲などを作る部署の代表だった