薄幸の歌人、山川登美子

詩歌(しいか)の機関誌(きかんし)『明星(みょうじょう)』の女流歌人として、与謝野晶子らとともに明治期の短歌(たんか)の進展(しんてん)に貢献(こうけん)しましたが、結核(けっかく)を患(わずら)い短い人生を閉じました。

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29歳の生涯を閉じるまで
山川登美子(やまかわとみこ)は、小浜市に生まれ少女時代から旧派の和歌を学びました。

明治33年に東京新詩社(しんししゃ)に加わり、『明星(みょうじょう)』の女流歌人として浪漫主義短歌(ろまんしゅぎたんか)の進展に大きく貢献。

師である与謝野鉄幹(よさのてっかん)への恋を与謝野晶子(よさのあきこ)にゆずり、親の決めた相手と結婚、歌の世界を一時離れました。

夫が結核(けっかく)で死別したのを契機に『明星』に返り咲き、晶子らと一緒に「恋衣(こいごろも)」を出版。

その後自身も結核に感染(かんせん)していることが判り、小浜に戻り療養生活を送りますが、29歳の若さで他界しました。
山川登美子生家(現在の山川登美子記念館)©山川登美子記念館
与謝野鉄幹が添削した登美子の歌稿©山川登美子記念館
合同歌集『恋衣』©山川登美子記念館
与謝野晶子に譲った恋
与謝野鉄幹(よさのてっかん)が創立した東京新詩社(しんししゃ)に所属し、機関紙(きかんし)『明星(みょうじょう)』の誌面で与謝野晶子(よさのあきこ)と歌の才能を競った登美子(とみこ)は、次第に鉄幹に恋心を抱くようになりました。

しかし、晶子もまた鉄幹に恋していることを知り、恋心を捨て晶子に譲る決意をしました。

「それとなく紅き花みな友にゆづりそむきて泣きて忘れ草つむ」という悲恋(ひれん)の歌を残して翌年の春、親の決めた一族の山川駐七郎(やまかわとめしちろう)のもとに嫁いだのでした。
東京新詩社の機関紙「明星」©山川登美子記念館
短い一生
結婚後2年で夫が結核(けっかく)で病死し、登美子(とみこ)にも伝染(でんせん)していることが判りました。

小浜に戻って療養した後、29歳の若さでこの世を去りました。

発病後は、絶望感(ぜつぼうかん)や無常感(むじょうかん)を率直に吐露(とろ)する作品を発表しました。

小浜市の発心寺(ほっしんじ)には登美子の墓があります。生家は、「山川登美子記念館」として改装され、奥座敷(おくざしき)「登美子終焉(しゅうえん)の間」は、息を引き取った部屋として残されています。
山川駐七郎と登美子©山川登美子記念館
登美子終焉の間©山川登美子記念館
山川登美子の墓(小浜市・発心寺)©福井テレビ
晶子と登美子
詩歌(しいか)の機関誌(きかんし)『明星(みょうじょう)』で歌の才能を競い、恋のライバルでもあった与謝野晶子(よさのあきこ)と山川登美子(やまかわとみこ)。

華麗(かれい)で奔放(ほんぽう)な歌風(かふう)の晶子に対し、登美子は清楚な趣(おもむ)きを持ち、激情(げきじょう)を底に沈めた自己抑制(じこよくせい)の美に気品の高さが感じられると評されています。

晶子は鉄幹と結婚。一方、登美子は親が決めた相手と結婚をするが早くに夫と死別。歌人として優れた業績を残しながらも、本人も若くして結核で亡くなりました。
登美子(左)と与謝野晶子(右)©山川登美子記念館

歴史年表

1879年(明治12年)
現在の小浜市に生まれる。
1900年(明治33年)
『明星』に参加する。山川駐七郎と結婚する。
1902年(明治35年)
夫が病死する。
1905年(明治38年)
与謝野晶子らとの共著、詩歌集『恋衣』を刊行する。
1909年(明治42年)
夫の結核が伝染し、小浜市で療養後没す。

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山川登美子生家/山川登美子記念館

山川登美子の生家を改装した資料館。数々の資料が展示されている

小浜公園

小浜湾を臨む公園。高台に佐久間勉の銅像や山川登美子の歌碑が建つ

発心寺

若狭守護武田元光が1522年に建立した曹洞宗のお寺。登美子のお墓がある

毫摂寺

浄土真宗出雲路派の本山。与謝野鉄幹、晶子夫妻が1933年(昭和8年)11月に訪れ、多くの歌を詠んでいる