昭和を代表する詩人、三好達治
滞在した三国で『花筐(はながたみ)』『故郷の花』『砂の砦(とりで)』などの作品を手がけ、昭和を代表する詩人と称されました。
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- 三国との関わり
- 大阪に生まれ、萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)、室生犀星(むろうさいせい)の影響を受けて詩の道に入った三好。
萩原朔太郎の妹・愛子を妻に迎え、昭和19年からの5年間三国に滞在。三国を「わが心のふるさと」と呼ぶほど愛しました。
滞在中に詩集『花筐(はながたみ)』をはじめ多くの作品を手がけ、昭和を代表する詩人と称されるようになりました。
三国を離れた後も県民歌の作詞など福井県との関わりは深く、三国には詩碑が建てられています。
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みくに龍翔館蔵 - 学生へのメッセージ
- 三好は、三国に新しくできた新制三国高校や大野高校の校歌、そして5番からなる福井県民歌の作詞を手がけました。
「心高かれ若人(わこうど)は」で始まる三国高校の校歌は、三好達治から学生たちへのメッセージともいえる詩。歌いだしの「心高かれ」は、三国高校の校訓(こうくん)にもなっています。
福井県立三国高等学校 校歌 作詞:三好達治
1.心高かれ若人は
雲美しき朝あけに
はるかに望む白山の
雪の嶺よりいや清く
心高かれ若人は
2.ゆかしき友を友垣(ともがき)に
めぐりて上る若草の
学の小径の語らいや
ひそかに匂う蘭の香の
ゆかしき友を友垣に
3.望み遠かれ若人は
緑が岡の松かげに
海はまどかにたたえたり
只一色の藍青に
望み遠かれ若人は
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©福井テレビ - 三国滞在の目的
- 若いころから萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)の妹愛子に憧れ、求婚しますが、彼女の両親の反対にあって断念。
しかし、愛子が夫・佐藤惣之助(さとうそうのすけ)に先立たれると、三好は妻・智恵子(ちえこ)と離婚して愛子を妻に迎えました。
昭和19年に雄島村(現在の坂井市三国町)米ヶ脇に移り住み、三国の豪商・森田家の別荘に5年間滞在しました。
この目的は、戦争を避けて文学に専念するためと、愛子と一緒に暮らすためでした。しかし、愛子とはすぐに離婚してしまいました。
みくに龍翔館蔵
©福井テレビ - 三国を踏まえた詩
- 5年間の三国滞在の間に、三好は詩集『花筐(はながたみ)』『故郷の花』『砂の砦(とりで)』『日光月光集』などを手がけました。
『花筐』は一部を除いて妻・愛子へ向けたものでしたが、その他の詩集は三国の風土を踏まえて書かれました。
とくに『故郷の花』『砂の砦』に収められた詩編の多くは、昭和を代表する詩人・三好の傑作(けっさく)と言えるもので、暗い北陸の海岸で戦時下から終戦への日々を孤独に生き、文学者としての再出発への気概(きがい)を書いたものでした。
みくに龍翔館蔵 - 三好達治の詩碑
- 坂井市三国町の海岸には、三好達治詩碑(みよしたつじしひ)が2つ建てられています。
1つは荒磯遊歩道(ありそゆうほどう)の北端の位置にあり、処女詩集『測量船』の巻頭作品「春の岬旅のをはりの鴎どり 浮きつつとおくなりにけるかも」が碑文として刻まれています。
もう1つは、東尋坊の北のはずれ、雄島を望む位置にあります。これは詩集『故郷の花』の『荒天薄暮』の全編が刻まれており、北陸三国で終戦を迎えた漂白の詩人の心情を吐露(とろ)したものなどを含みます。
また、三好が三国で暮らした寓居跡(ぐうきょあと)にも詩碑が建てられていて、碑には三好が寓居で詠んだ『日光月光集』のなかの『秋花飛歌』の詩が刻まれています。
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歴史年表
- 1900年(明治33年)
- 大阪市に生まれる。
- 1928年(昭和3年)
- 東京帝国大学文学部仏文科を卒業する。
- 1930年(昭和5年)
- 処女詩集『測量船』を刊行する。
- 1944年(昭和19年)
- 雄島村(現在の三国町)米ヶ脇に移り住む。『花筐』を刊行。
- 1946(昭和21年)
- 『故郷の花』『砂の砦』を刊行。
- 1964年(昭和39年)
- 64歳で没す。
関連ポイントを探す
三好達治寓居跡/三好楼
三好達治が三国で暮らしていた森田家の別荘の跡
荒磯遊歩道
坂井市三国町の米ヶ脇から雄島までの松林を通りぬける約4㎞の遊歩道。三国ゆかりの文人や詩人たちの石碑が点在する
みくに龍翔館
三国の高台に建つ郷土資料館。外観は、エッセルがデザインした龍翔小学校がモデル。エッセルの息子・エッシャーにちなみトリックアートを多数展示
旧森田銀行本店
1920年に建てられた森田銀行の本店。県内に残る最古の鉄筋コンクリート造りの建物。美しい外観と内装が特徴
三国高等学校
校歌の歌詞は、三好達治が作詞した