「沈勇」と称えられた佐久間勉
潜水艇(せんすいてい)が沈没する中、冷静に任務を果たした佐久間艇長(さくまていちょう)。その遺書(いしょ)は多くの人の感動を呼び、「沈勇(ちんゆう)」と称(たた)えられました。
偉人のあゆみを調べよう!
- 潜水艇の沈没
- 明治43年、山口県新湊(しんみなと)沖で訓練中に潜水艇(せんすいてい)が沈没(ちんぼつ)。
潜水艇の総指揮者である佐久間艇長(さくまていちょう)を含む乗組員14人は、浮上(ふじょう)のためのあらゆる手段を尽くしましたが、全員が海底の艇内にとじ込められ亡くなりました。
事故後、潜水艇を引き上げたところ、佐久間の衣服のポケットから一冊の手帳が見つかりました。
そこには、事故が起きた10時から絶命する12時40分までの艇内(ていない)の様子が39ページにわたり、克明(こくめい)に書き残されていました。
©佐久間記念館 - 手帳の中の遺書
- 手帳には、沈没(ちんぼつ)の原因や浮上(ふじょう)のために尽くした手段などが書き込まれており、そのことが後の潜水艇(せんすいてい)の発達に大きく貢献することになりました。
また、天皇陛下へのお詫(わ)びや、部下の家族を思う言葉も書かれていました。
極限状態に置かれながら最後まで任務を全うし、人間愛にあふれる遺書(いしょ)を残した佐久間艇長。その遺書の言葉は、「沈勇(ちんゆう)」と題されて、戦前の教科書に長く掲載されていました。
©佐久間記念館 - 第六号潜水艇
- 佐久間(さくま)が任された潜水艇(せんすいてい)は、特に運転技術が必要な日本製の潜水艇「第六号潜水艇」でした。
「第六号潜水艇」は初の日本製の潜水艇が完成して間もなくのもので、技術的にはまだ実験段階にあったと言える潜水艇でした。
事故後引き上げられた潜水艇は、詳しい調査の後、1945年まで呉(くれ)の潜水学校に展示保存され、第二次世界大戦の終戦後に解体されました。
©佐久間記念館 - 感動を呼んだ遺書
- 佐久間(さくま)の遺書(いしょ)を目にした人は、誰もがみな大きな感銘(かんめい)を受けました。
文豪・夏目漱石(なつめそうせき)は、濡れた遺書の写真をもらい、その名文を何度も読み返したといいます。
また、女流歌人・与謝野晶子(よさのあきこ)は、
「海底の 水の明かりにしたためし 永き別れの ますら男の文」
など、十首もの歌を詠み艇長を追悼(ついとう)しました。
©佐久間記念館 - 英国や米国でも…
- 潜水艇(せんすいてい)を引き上げてみると、佐久間艇長(さくまていちょう)を含む乗組員14人のうち12人が、自分の持ち場で亡くなっていました。
残る2人は破損した場所で見つかり、最後まで修理にあたっていたことがわかりました。すべての乗組員が艇長の指揮のもと、冷静に任務にあたりながら亡くなっていたのでした。
そのことが海外にも伝わり、海軍軍人の模範(もはん)として、イギリス海軍では教本に載り、アメリカでは国会議事堂で遺書(いしょ)の写しが展示されました。
歴史年表
- 1879年(明治12年)
- 福井県三方郡北前川村(現在の若狭町)で、前川神社神官の次男として生まれる。
- 1901年(明治34年)
- 海軍兵学校を卒業。
- 1903年(明治36年)
- 海軍少尉になる。
- 1908年(明治41年)
- 第六潜水艇隊の艇長を命じられる。
- 1910年(明治43年)
- 4月15日、第六潜水艇、山口県新湊沖で訓練中に沈没。乗組員とともに殉職。
関連ポイントを探す
佐久間記念館
旧日本海軍の潜水艇長・佐久間勉の資料館。手帳に書きとめた遺書とも言えるメモ(復製)や数々の遺品が残る
前川神社
佐久間勉は、前川神社神主の佐久間可盛の次男として生まれた。神社境内には生誕地碑がある
六号神社
第六号潜水艇の乗員の霊を祀っている神社。前川神社境内にある
小浜公園
小浜湾を臨む公園。高台に佐久間勉の銅像や山川登美子の歌碑が建つ