敦賀港発展の父、大和田荘七

海運(かいうん)、交易(こうえき)、銀行などで成功し、港の国際貿易港(こくさいぼうえきこう)指定や港湾(こうわん)の整備に尽力(じんりょく)するなど、敦賀港の発展と街の活性に力を注(そそ)ぎました。

偉人のあゆみを調べよう!

大実業家への道
大和田荘七は、北前船(きたまえぶね)の船主(せんしゅ)であった大和田家の養子で、生まれは薬屋の次男として生まれました。

子どものころから賢(かしこ)く、それが初代大和田荘七の目にとまり、22歳のとき養子になり30歳のときに大和田荘七の名を襲名(しゅうめい)しました。

荘七は、近代化が進む時代の波をいち早く察知(さっち)し、手腕(しゅわん)を発揮。大実業家となり、敦賀の港の開港運動や銀行の設立など、敦賀の発展に大きく貢献(こうけん)しました。
大和田銀行本店外観©敦賀市立博物館
大和田銀行本店館内©敦賀市立博物館
敦賀港を国際貿易港に
荘七は、外国貿易の時代が必ず来ることを予測し、敦賀の港が国際的な貿易港として発展できるように開港運動を精力的(せいりょくてき)に進めました。

また大和田銀行を設立し、敦賀港を利用する商人たちの後立てとなり、金融面(きんゆうめん)からも港と敦賀の活性化に努めました。

明治27年、荘七は上京し、福井県選出の代議員に「敦賀港開港に関する請願書(せいがんしょ)」を提出。

そして明治32年、開港運動の努力が実り、敦賀港は国際貿易港の指定を受けました。
明治30年の敦賀港澤崎勢一氏 提供
現在の敦賀港©福井テレビ
国際港のピンチを救う
国際貿易港として幕を開けた敦賀港。

しかし、北陸線が延伸(えんしん)されたことで、これまで海上輸送されていたものが鉄道輸送になり、敦賀港の利用が停滞(ていたい)。国の貿易港指定が解除されるかもしれないという危機(きき)に直面(ちょくめん)しました。

このピンチを救うため、荘七は自ら貿易会社を設立して牛や大豆の輸入を行い、敦賀港を危機から救いました。

敦賀市縄間(のうま)には、牛の輸入のために荘七が建てた獣類(じゅうるい)検疫所が、今も当時の姿を残しています。
旧獣類検疫所(敦賀市縄間)©福井テレビ
敦賀港に上陸した外国人観光客(大正初期)寺元あい氏 提供
大和田銀行
明治25年、荘七は敦賀に大和田銀行を創立(そうりつ)。大阪や金沢ほか県内に支店を設(もう)け、業績を伸ばしました。

昭和2年には、敦賀市相生町(あいおいちょう)に本店を新築移転。建物は地上3階地下1階で、北陸初のエレベータも備えられた当時最新の西洋建築でした。

その後、第二次世界大戦中に国の政策(せいさく)により三和銀行と合併し、大和田銀行は幕を閉じました。

本店の建物は、現在、昭和初期を代表する建築物の一つとして、銀行の面影を保存しながら敦賀市立博物館として利用されています。
大和田銀行本店外観©敦賀市立博物館
大和田銀行本店館内©敦賀市立博物館

歴史年表

1857年(安政4年)
薬屋の次男として、敦賀に生まれる。
1878年(明治11年)
初代大和田荘七の養子になる。
1887年(明治20年)
初代大和田荘七の名を受け継ぎ、2代目となる。
1892年(明治25年)
大和田銀行設立。
1894年(明治27年)
「敦賀港開港に関する請願書」を提出。
1899年(明治32年)
敦賀港が国際貿易港の指定を受ける。
1912年(明治45年)
敦賀港を中継点とした東京とヨーロッパ各国を結ぶ「欧亜国際連絡列車」開通。
1916年(大正5年)
藍綬褒章を受ける。
1945年(昭和20年)
大和田銀行が三和銀行に吸収合併。
1947年(昭和22年)
90歳で没す。

関連ポイントを探す

敦賀市立博物館(旧大和田銀行本店)

敦賀にゆかりのある日本絵画や港の資料等を展示している博物館。敦賀港の発展に力を尽くした大和田荘七が造った旧大和田銀行の本店を利用している

金ヶ崎緑地

敦賀港を臨む緑地公園。大和田家の別荘をモチーフにした資料館「人道の港 敦賀ムゼウム」がある

獣類検疫所

朝鮮牛輸入のため大和田荘七が私有地に設けた仮獣類検疫所をもとに、1916年、国の検疫所として設置された