中国人の誰もが知る藤野厳九郎
阿Q正伝(あきゅうせいでん)などで知られる中国の文豪・魯迅(ろじん)が藤野厳九郎(ふじのげんくろう)との思い出を綴った『藤野先生(ふじのせんせい)』は、中国では教科書に採用され広くその名を知られています。
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- 魯迅と藤野厳九郎
- その出会いは、藤野が仙台医学専門学校(せんだいいがくせんもんがっこう)で解剖学(かいぼうがく)の教授をしていたときのことでした。
中国からの留学生であった魯迅(ろじん)のために、藤野は講義を筆記したノートを細かく添削(てんさく)しました。それは魯迅が医学から文学へ転向して仙台を去るまで続きました。
魯迅はその恩を終生忘れず、藤野との思い出を綴った『藤野先生(ふじのせんせい)』を執筆(しっぴつ)。
『藤野先生』は、中国の中学校の教科書にも採用されていて、藤野厳九郎(ふじのげんくろう)を知らない中国人はいないといわれています。
©あわら市・藤野厳九郎記念館
©あわら市・藤野厳九郎記念館
©あわら市・藤野厳九郎記念館 - 再会できなかった2人
- 仙台医学専門学校(せんだいいがくせんもんがっこう)を退職した藤野(ふじの)は、故郷の福井へ戻り、妻の実家がある三国(みくに)で耳鼻咽喉科(じびいんこうか)の医院を開業。
一方、文学者となった魯迅(ろじん)は『藤野先生(ふじのせんせい)』を発表し、またその後、日本で『魯迅全集(ろじんぜんしゅう)』が出版されるにあたって、音信不通となっていた藤野との再会を強く願っていましたが、再会の夢は叶いませんでした。
しかし、この2人の縁から、藤野の故郷の芦原町(現在のあわら市)と魯迅の故郷の紹興市(しょうこうし)が姉妹都市になり、今も日本と中国との懸け橋となり続けています。
©あわら市・藤野厳九郎記念館
©あわら市・藤野厳九郎記念館 - 中国近代文学の父・魯迅
- 魯迅(ろじん)は1881年に中国の浙江省紹興市(せっこうしょうしょうこうし)生まれ。本名は周樹人(しゅうじゅじん)。
中国で初めて口語(こうご)による小説を発表するなど、中国の文学革命(ぶんがくかくめい)に貢献(こうけん)し、中国近代文学の父とも呼ばれています。
日本留学中、魯迅は日露戦争(にちろせんそう)を報じるスライドを見て、彼のその後の人生が変わるほどの衝撃(しょうげき)を受けました。
中国人の処刑(しょけい)を平然と見ている中国人たちの姿に、魯迅は肉体よりまず精神の治療が中国人には必要と感じたのでした。
それが文学の道へのきっかけとなりました。
歴史年表
- 1874年(明治7年)
- 本荘村(現あわら市)に、医者の三男として生まれる。
- 1896年(明治29年)
- 愛知医学校(現名古屋大学医学部)卒業後、同学校の助手となる。
- 1901年(明治34年)
- 仙台医学専門学校講師、後に教授に就任。
- 1904年(明治37年)
- 中国留学生の周樹人(後の魯迅)仙台医学専門学校入学。
- 1916年(大正5年)
- 郷里に戻り妻の生家のある三国町で開業医となる。
- 1926年(大正15年)
- 魯迅が自叙伝的短編小説『藤野先生』を発表。
- 1945年(昭和20年)
- 往診先で倒れ死去。
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藤野厳九郎記念館
藤野厳九郎の旧居を移設した記念館。藤野厳九郎の息使いが感じられる。隣のあわら市文化会館には、藤野厳九郎と魯迅に関する資料が展示されている
足羽山/惜別の碑
藤野厳九郎と魯迅の「不滅の結縁」を象徴する記念碑