文壇に新風を吹き込んだ高見順

出生の事情から、故郷への複雑な想いを抱きつつ、新しい手法の小説を試み、昭和の文壇(ぶんだん)に新風を吹き込みました。

偉人のあゆみを調べよう!

暗い出生を踏み台に
高見順(たかみじゅん)は、福井県知事・阪本釤之助(さかもとさんのすけ)の子として三国町(現在の坂井市三国町)に生まれましたが認知されませんでした。

小説家としての道を歩むべく、東京大学英文科では同人誌「大学左派」などに参加。長編小説『故旧忘れ得べき』が第一回芥川賞候補に選ばれ、『描写のうしろに寝てゐられない』などで注目を集めて、昭和の文壇(ぶんだん)に新風を吹き込みました。

戦後は自伝的長編小説『わが胸の底のここには』や前衛小説などを執筆。

癌(がん)に冒(おか)されながら詩集『死の淵より』を描き、58歳でこの世を去りました。
高見順生家跡(坂井市三国町北本町3丁目)©福井テレビ
複雑な生い立ち
1歳の頃、高見(たかみ)は、母とともに東京へ移り住みました。

母に「政治家になり、父親を見返すように」と厳しくしつけられた子ども時代。しかし、高見は成長すると、政治家ではなく文学の道を選びました。

東京帝国大学(現東京大学)英文科に入学し「大学左派」などの同人誌に参加し、小説家への道を歩き始めました。

その後もあらゆる小説の試みに成功しましたが、出生の事情は、生涯に渡り暗い影を落とすことになりました。
2歳の頃の高見順日本近代文学館提供
東京帝国大学文学部の卒業写真日本近代文学館提供
故郷・三国への想い
高見(たかみ)にとって三国は、自身の暗い出生の過去につながる場所でした。

しかし、作家として成功した後、三国を訪れ、改めて三国を故郷として愛するようになったと言われています。

昭和21年から連載された長編小説『わが胸の底のここには』では、幼児からの恥をさらけ出すことによって自己を確認し、そこから新しい生の充実を図ろうと、出生の秘密から府立一中時代までの自己形成の歩みを自虐的(じぎゃくてき)に描いています。
ふるさとの海©福井テレビ
文才の血筋
高見(たかみ)の血筋には文才に秀でる人が多く、父の阪本釤之助(さかもとさんのすけ)は、小説家・永井荷風(ながいかふう)の父方の叔父にあたり、荷風と高見順は従兄弟(いとこ)同士になります。

また、異母兄に詩人・阪本越郎(さかもとえつろう)がいます。タレントでエッセイストの高見恭子(たかみきょうこ)は、高見順の娘です。
文学碑
三国町の荒磯遊歩道には、高見の文学を記念して建てられた文学碑があります。

詩集『死の淵より』の『荒磯』の「おれは荒磯の生れなのだ おれが生れた冬の朝 黒い日本海ははげしく荒れてゐたのだ」が、本人自筆の文字で刻まれています。

碑の裏面には友人・川端康成(かわばたやすなり)の解説文があります。

毎年7月には、高見を偲(しの)び、碑の前で荒磯忌(ありそき)が営まれています。
荒磯(ありそ)が収録されている詩集『死の淵より』みくに龍翔館蔵
荒磯(ありそ)遊歩道の文学碑©福井テレビ
荒磯忌©福井テレビ

歴史年表

1907年(明治40年)
三国(現坂井市三国町)で福井県知事・阪本釤之助の子として生まれる。
1930年(昭和5年)
東京大学英文科を卒業する。
1933年(昭和8年)
治安維持法違反の容疑で検挙される。
1935年(昭和10年)
饒舌体で『故旧忘れ得べき』を著し、第一回芥川賞候補となる。
1939年(昭和14年)
『如何なる星の下に』を著す。
1965年(昭和40年)
食道癌のため58歳で没す。

関連ポイントを探す

高見順生家跡

文豪、高見順の生家。高見順は絶筆詩集「死の淵」の中の詩「荒磯」で、「おれは荒磯の生まれなのだ」と記している

荒磯遊歩道

坂井市三国町の米ヶ脇から雄島までの松林を通りぬける約4㎞の遊歩道。三国ゆかりの文人や詩人たちの石碑が点在する

みくに龍翔館

三国の高台に建つ郷土資料館。外観は、エッセルがデザインした龍翔小学校がモデル。エッセルの息子・エッシャーにちなみトリックアートを多数展示