浮世絵の元祖、岩佐又兵衛
偉人の歩みを調べよう
- 独創的な画風
- 一族惨殺の遺児
- 福井藩から将軍家へ
- 江戸でも才を発揮
- 金谷屏風
(C)福井県立美術館 又兵衛(またべえ)の作品は、それまでの流派にとらわれない独創的な画風で人気を集めました。
『金谷屏風(かなやびょうぶ)』では、和漢(わかん)の画題と画技が見事に融合。最も又兵衛の特色が現れるのは人物表現で、豊かな頬(ほほ)と長い顎(あご)、たくましい肉体を持ち、バランスを失するほど極端な動きを強調しました。
独自の作風を身につけた又兵衛は、やがて到来する浮世絵(うきよえ)の先駆者として「浮世又兵衛」とも呼ばれました。
(C)福井県立美術館
又兵衛(またべえ)は、伊丹(いたみ)城主であった戦国武将・荒木村重(あらきむらしげ)の子として生まれました。
又兵衛が生まれた翌年、村重が主君の織田信長に反逆(はんぎゃく)を企(くわだ)て失敗。一族のほとんどが惨殺(ざんさつ)されましたが、赤ん坊だった又兵衛は落城間際(らくじょうまぎわ)に乳母(うば)に救い出され,奇跡的(きせきてき)に生きのびることができました。
その後、岩佐という母方の姓を名乗り、京に住んで絵師となりました。
(C)長久寺 又兵衛(またべえ)は、40歳の頃、福井藩の殿様・松平忠直(まつだいらただなお)に福井へ呼ばれて移り住みました。
約20年を福井で過ごし、その間、多くの画工(がこう)を抱える工房をつくり、殿様や豪商(ごうしょう)などの求めに応じて絵を描く生活を送りました。
その後、将軍家に呼ばれて江戸に移り、優れた作品を多く手がけ、73歳で生涯を閉じました。
越前に戻ることなく又兵衛は江戸で亡くなりましたが、又兵衛の子・勝重(かつしげ)は、又兵衛と同じく福井藩の御用絵師(ごようえし)となって活躍しました。
絵で数々の傑作(けっさく)を生み出した又兵衛(またべえ)の才能は、将軍にも認められました。
三代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)の命により、家光の長女・千代姫(ちよひめ)が尾張藩の徳川光友(とくがわみつとも)へ嫁入りする際には、婚礼調度(ちょうど)品『初音(はつね)の調度』の意匠(いしょう・デザイン)を任されました。
金工は後藤顕乗、書は梶井宮円融院が受け持ち、彼らが作った豪勢(ごうせい)な婚礼調度品は経済力のある町人たちにも影響を与えました。
(C)福井県立美術館 福井藩を代表する豪商(ごうしょう)の金屋(かなや)家が所蔵(しょぞう)していたもので、本来は六曲一双(ろっきょくいっそう)の屏風(びょうぶ)でしたが、明治の終わり頃に一面ごとにバラバラにされ現在は別々の場所にあります。
品格の漂(ただよ)う人物描写からなるその絵は、「浮世又兵衛(うきよまたべえ)」と呼ばれた又兵衛の初期の作品として、たいへんに貴重なものとされています。
福井県立美術館には、『三十六歌仙図(さんじゅうろっかせんず)』など多くの又兵衛作品が収蔵されています。
(C)福井県立美術館
歴史年表
1578年(天正6) 現在の兵庫県で生まれる。
1616年(元和2) この頃、京都から越前北庄に移住する。
1637年(寛永14) 60歳の時将軍家光の用命で江戸に招かれる。
1650年(慶安3) 73歳で没す。
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